大永四年(一五二四)正月十三日、高輪原(港区)で大きな合戦があった。小田原を本拠地に、相模から武蔵に進出して関東制覇をもくろむ北条氏綱と、関東管領の栄光を死守しようとする江戸城主上杉(扇谷)朝興の軍勢がくりひろげた戦闘である。確実な史料によるかぎり、品川のちかくで戦われた戦争は、この合戦だけである。品川の町は、相・豆の軍兵であふれたにちがいない。氏綱は合戦の前日、妙国寺と本光寺に禁制を下し、軍勢が寺中で「濫妨狼藉」をはたらくことをかたく禁じた。現存する妙国寺あての禁制を目の前にすると、合戦前夜の緊迫した空気が迫ってくるようだ。合戦は籠城を避けて野戦に打って出た上杉勢が大敗を喫し、朝興は河越城へ逃避した。こうして「武(武蔵)の安危はその一城(江戸城)にかかる」といわれた江戸城は北条氏綱の手に帰し、関東制覇の前進基地となる。氏綱は遠山綱景を江戸城に入れ、天文二十一年(一五五二)ごろに江戸城直属の軍団=江戸衆を編成した。その結果が、永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』に示されていて、一人一人の家臣が所属する「衆」の別、所領の所在地と軍役高(出陣時の人数装備などの義務)が規定された。諸「衆」のうち江戸衆の一〇三名がもっとも多く、役高累計も一万六七八〇貫余で、断然他の「衆」を圧倒している。
品川区域に知行地をもつ武士の役高を示すと第4表のようになり、江戸城に在番したり、戦争のときに江戸城代の指揮下に入る江戸衆と、御家門葛西(かさい)様に限られ、他の「衆」に所属する武士は区域に知行地を持っていない。いま上表を検討する余裕はないが、御家門葛西様について触れておきたい。この人は最後の古河公方足利義氏である。母は北条氏綱の娘で、関東支配の正統性を獲得する目的で後北条氏にとりこまれたロボットである。「役帳」によると、義氏は南北品川以外に小机城(横浜市港北区)城下の長津田(横浜市緑区)・同子安(横浜市神奈川区)江戸平塚に所領をもっているが、古河公方がもともと支配していた所領とは考えられない。おそらく天文九年(一五四〇)に氏綱の娘、のちの芳春院が古河公方晴氏に嫁したとき、氏綱から寄せられた御料所であったろう。しかし南北品川が公方晴氏――義久の御領所であっても、後北条氏の支配が強く及んでいたことは、義氏の知行が確実な時期に、後北条氏の最高権威を象徴した虎印判状が、品川に下されていることからも明らかである。品川は後北条氏の準直轄地と考えてよいのである。
衆別 | 家臣名 | 地名 | 役高 | 役高総額 | |
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江戸衆 | 川村跡 | 江戸 | 太井 | 56貫560文 | 178貫560文 |
島津孫四郎 | 北品川法林院分 | 16貫630文 | 533貫132文 | ||
中之部品川筋永福寺分 | 2貫000文 | ||||
島津又次郎 | 北品川法林院分 | 15貫000文 | 138貫954文 | ||
太田新六郎 | 品川内 | 布西寺分 | 2貫500文 | 1,419貫900文 | |
梶原 | 六郷内 | 戸越村 | 13貫300文 | 29貫300文 | |
粟田口 | 品川内 | 粟田口分 | 14貫500文 | 14貫500文 | |
御家門方 | 葛西様御領 | 江戸 | 品川南北 | 77貫350文 | 395貫110文 |