問屋

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 宿は同時に村であり、村落としての一般行政は名主・組頭・百姓代の村役人が担当したが、宿としての業務は専ら宿役人が管掌した。宿役人の長を問屋という。この称は中世において運送業や倉庫業に従事した問(とい)・問丸(といまる)に起原を持つ。世襲される場合が多く、また名主が兼帯する例も少なくなかった。宿内では大きな権限を有していたが、職務はきわめて繁忙で、責任は重大であった。東海道川崎宿の問屋を勤め、のちに幕府の代官に取り立てられた田中丘隅は、その著『民間省要』で、「問屋は外を下知して町中助郷の人馬を差引、往還人に対して用事多くして、問屋場にすわりて居るは稀なり」と、席のあたたまる暇もない問屋の繁忙ぶりを記している。

 問屋の補佐役が年寄で、問屋が不在のときには宿を代表する立場にあった。

 品川宿の問屋は南品川宿と北品川宿に各一名、計二名、年寄は南北両宿と歩行新宿に各一名、計三名がいて、交代で執務していた(天保十四年「宿村明細書上」による)。問屋・年寄になる家はほぼ一定しており、なかでも北品川宿の問屋は世襲が続いた。南品川宿の問屋も、はじめは世襲制であったとみられるが、途中から、代限りとなった。しかし、安政五年(一八五八)に名主の利田(かがた)安之助が兼帯問屋に就任したのを機に、再び世襲制がとられるようになった。問屋が一代限りでは宿内の取締りに権威を欠くというのがその理由である。同時に、問屋の役料は次のように決められている。

一 米七斗         問屋給米(幕府より与えられたもの)

一 米三石一斗       役料地の田の小作米(このなかから年貢や高掛りの負担は出す)

一 銭五貫文        役料地の畑の小作年貢(前と同じ)

一 金五両         馬役一軒分を役引き

一 金三両         町入用を役引き

一 金二両         増役料

一 銭四一貫七四八文    五節の役銭

本(馬)役六三軒、半役七軒、歩行役八軒、四町目の小役五軒半、計八三軒半の家から、一軒につき一節に一〇〇文、五節で五〇〇文ずつを出す分

一 銭四〇貫文       五節の役銭

   旅箱屋四〇軒から、一軒が一節につき二〇〇文、五節で一貫文ずつ出す分

一 銭一貫文        五節の役銭

   三軒家の町役銭で、一節に二〇〇文ずつ、五節で一貫文ずつ三軒分

一 銭一貫五〇〇文     三節の役銭

   小役中の役銭で、一節に五〇〇文ずつ三度の分。

 合計すると米三石八斗、金一〇両、銭八九貫二四八文となる。このうち問屋給米七斗は幕府から支払われたが、ほかはすべて宿住民の負担であった。

 問屋・年寄の下にいて宿駅業務の実務を分掌したものに帳付(ちょうづけ)や馬指(うまさし)・人足指がいた。帳付は書記の仕事をするもので、問屋に雇われている身分であったが、煩雑な事務一切を処理しなければならず、『民間省要』によれば、気転がきいて度胸のある人でなければ勤まらなかった。馬指・人足指は、宿駅・助郷人馬につける荷物を宰配した。馬と人足を同時に差配したところでは人馬指といったが、品川宿には馬指と人足指が別にいた。かれらも形の上では問屋の奉公人にすぎなかったが、宿場においては、なくてはならない存在だった。品川では天保十四年当時、南北品川両宿と歩行新宿に二人ずつ、計六名の帳付と、南北品川両宿に三人ずつの馬指、歩行新宿に二人の人足指がおり、交代で勤務していた。

 問屋・年寄とその下役達が執務するところを問屋場という。品川宿では、はじめ南品川宿東側北角と北品川宿一丁目西側の二カ所あり、交代で事務をとっていた。ところが、正徳二年(一七一二)に北品川宿の問屋場が焼失し、その後は南品川宿の問屋場だけで業務を行うことになって北品川宿は次第に往時の繁栄を失った。そのため享保十七年(一七三二)に至り、北品川宿から代官所に問屋場の再建を願い出て、翌年、許可されている。下って文政六年(一八二三)正月の大火で南北品川の問屋場が類焼し、品川宿の問屋場は再び南品川宿一カ所となった。


第37図 問屋場(『駅逓志稿』)

 ここで安永三年(一七七四)に品川宿の宿役人と助郷惣代が合議して決めた「往還勤方議定箇条」によって、問屋場における宿役人とその下役達の勤めぶりをうかがってみよう。

 

 問屋たちは日々未明より問屋場に詰め、一人ずつは終日問屋場をあけないようにして、帳付・馬指・人足指に立ち合い、助郷人馬に不足があれば助郷惣代へ掛けあい、代わりの人馬を出させるようにし、また宿の出すべき人馬も改めて、定数に不足がないようにしなければならない。年寄も同様に毎日問屋場へ詰めて、問屋たちにさし添って勤めること。帳付・馬指・人足指の者たちは同役の者が申し合わせて、平日問屋場を寸時もあけないようにする。帳付は先触やその他の往来の多少を考慮して、問屋たちに相談のうえ、余分の人馬を触れあてないように心がけ、日々の日メ帳(毎日出入りする人馬数等を書き留めた帳簿)を怠りなくつけなければならない。馬指と人足指たちは、助郷惣代に立ちあわせて、人馬が到着したか否かを厳密に改め、すべて問屋や年寄の差図を受けるようにする。泊り番は帳付二人・馬指二人・人足指一人、計五人が毎夜問屋場に詰めていて、夜中の継立を遅滞なく取計らうようにする。

 

 なお問屋場は南北品川に二カ所あったときには、三日交代で開かれ、両宿がかわるがわる勤めた。問屋場が一カ所となっても両宿が三日交代で勤める原則にかわりはなかったが、享保七年(一七二二)以降は、歩行新宿からも出務している。天保十四年(一八四三)の「宿村明細書上」によると三宿の宿役人らの勤務日程は第5表の如くであった。これを三日ずつくり返したのである。

第5表 勤務日程表
問屋 年寄 帳付 馬指 人足指 迎番 人足請負人
当番の宿 一人 一人 二人 二人 一人
三日勤 二日勤 三日昼夜 三日昼夜 二日勤
歩行新宿 一人 一人 一人 一人 二人
一日勤 三日昼夜 三日昼夜 一日勤 三日宛詰切