宿駅に課せられた第一の義務は、公用の旅行者のために伝馬を提供し、人や荷物を次の宿まで輸送することである。そのために一定数の人馬を宿ごとに用意しておかなければならなかったが、最初は馬だけで、東海道の諸宿の場合は、慶長六年に三六疋と定められた。もっとも人足を徴用しないというのではなく、その数をとくに定めなかったのである。東海道の宿駅の常備すべき人馬数が一〇〇人一〇〇疋と定められたのは確実ではないが、寛永期であるとされている。
宿の人馬(伝馬)の使用者は公用の旅行者に限られていたが、将軍の発行した朱印状によって伝馬の使用が許されるものはとくに限定されていた。その中には宇治の茶や、備後の畳表など、幕府の必要とする品物も含まれていた。伝馬の使用は朱印のほか、老中・京都所司代・大坂城代・駿府城代・勘定奉行などの発行する証文でも許可されたが、それも特定の場合に限られていた。朱印状や証文には一日に使役できる人馬の数が記されており、その分は無賃であった。
宿駅の人馬負担を伝馬役といい、これには馬役と歩行役(人足役)があった。その負担方法は宿によって相違したが、元来軒役であったものが、次第に居屋敷の間口の広狭や持高に応じて勤めるところが多くなった。品川宿の場合は、あとまで軒役であった。元文元年(一七三六)の資料によると、馬役の家は南北合わせて一四六軒(その内訳は南品川宿に七七軒、北品川宿に六八軒、ただし、これを合計すると一四五軒となる。)あり、一軒ごとの免税地は、南品川は八四坪、北品川は一〇〇坪ずつ与えられていた。歩行役の家は南品川宿に一〇軒あり、あわせて二〇七坪の免税地が与えられていた。もっとも、この歩行役は専ら継飛脚御状箱持を勤めたものであった。また、歩行小役の家が南北合わせて四七軒あり、うち二五軒は南品川宿におり往還荷付手伝、御用物荷番、助郷人馬触、在方御用状持送りなどを勤めた。北品川宿の歩行小役の家は二二軒あり、同様の勤めをした。なお規定の往還歩行役(かちやく)一〇〇人は南品川の四カ寺の門前から四人ずつ出るほかはすべて歩行新宿の家々の負担であった。