ところで、公用の旅行者であっても、朱印状・証文に記されている人馬の数を超過する場合には賃銭を支払わなければならない。幕府の定めた賃銭を御定賃銭といい、各宿の高札に掲示されていた。本来、すべての旅行者や荷物に適用されるはずの賃銭であったが、のちには公用旅行者のみに適用されるようになった。そのため御定賃銭で人馬を使うことは一種の特権となり、その範囲も限定された。参勤交代の大名は一定数の人馬を御定賃銭で使用できた。
江戸・品川間の駄賃は、慶長十六年の規定では一駄を四〇貫として、鐚銭(びたせん)(京銭に同じく国内の鋳造銭)二六文で、人足賃はその半分であった。元和二年には三割増して一駄が三四文となった。その後、一里につき何文増という方法で上昇し、また、寛文二年(一六六二)の五三文を基準として何割増という方法で上昇して、宝永四年には九四文となり、これが正徳元年(一七一一)の元(もと)賃銭となった。以後、この元賃銭に何割かの割増銭を付加する方法がとられ、通用年限がくると元賃銭に戻った。なお割増分の一部は宿場の助成金にまわされた。
御定賃銭で人馬を使用できない一般庶民などの場合には相対(あいたい)賃銭で人馬を雇った。朱印状や証文で無賃の人馬の使用を認められた者でもその数を超過すれば、御定賃銭または相対賃銭の人馬を使い、御定賃銭の人馬を定数だけ使用することを許されたものは、これを超えれば相対賃銭の人馬を使用しなければならなかった。相対賃銭は本来は、人馬の使用者と駄賃稼ぎの者とが相対で賃銭をきめるのであるが、多くの人馬を必要とする旅行者は問屋にかかるのが普通である。その賃銭は、公用の場合で御定賃銭の三割増程度であったが、一般の場合は二倍が標準であった。
また、人馬の運ぶ荷物の重量には制限があった。慶長六年正月、東海道の宿々に発した伝馬伝書では、荷積は一駄に三〇貫(一一二・五キロ)までとしている。その後伝馬荷は三二貫目(一二〇キロ)、駄賃荷は四〇貫目(一五〇キロ)となり、元和二年の規定で、伝馬荷も四〇貫となった。四〇貫の荷を積んだ馬を本馬といい、その賃銭が人馬賃銭の基準となった。本馬に対し、人が乗って荷をつけない馬を軽尻(からじり)馬という。人のほかに五貫目までの荷物を付けることは許されていた。人が乗らない場合は二〇貫までの荷物をつけた。賃銭は本馬賃銭の三分の二にあたった。人が乗って荷物をつけた馬を乗懸馬という。人のほかに二〇貫目までの荷物を許した。駄賃は本馬と同じであった。人足の荷物は五貫目までで、賃銭は本馬の半分である。目方が超過すれば、それに応じた賃銭をとった。