こうした規定があっても人馬の使用者は、できるだけ重い荷物を運ばせようとする。そこで正徳二年(一七一二)荷物の重量を検査する貫目改所が東海道の品川・駿府・草津、中山道の板橋・洗馬(せば)に設けられた。その後日光道中の千住・宇都宮、甲州道中の内藤新宿と甲府柳町、中山道の追分宿にも設置された。貫目改所へは、幕領では支配代官所、私領では領主から役人が出張して検査に立ち合った。
貫目改所は問屋場に隣接しているか、同一の建物内にあるのがきまりである。品川宿でも南北の問屋場に設けられたが、文政六年の大火で北品川宿の問屋場・貫目改所が焼失して以来、南品川宿の一カ所となった。
貫目改所へは代官所の出役役人のほか、宿方から名主・年寄のうち一人、定詰(じょうづめ)年寄一人、下役の者二人が毎日詰めていた。実際は通過する荷物の目方を全部改めていては往還に支障をきたすので、荷物を付けかえるときに、重い荷物があれば改めることとした。また大名・旗本の中には貫目を改めることを拒否する者もいた。