継立人馬が宿駅常置の人馬で不足するときには近隣の村から人馬を集めなければならなかった。はじめは必要に応じて集めたのであるが、のちには制度化され、宿ごとに人馬を提供すべき村が指定され、その村を助郷(すけごう)というようになった。また、恒常的に人馬を補充することを義務づけられた助郷を定助郷(じょうすけごう)といった。
品川宿の定助郷は享保十年当時で五七カ村(第6表)、石高にして一万七六六七石である。うち荏原郡に四五カ村、豊島郡に一二カ村で、大部分は現在の品川区内にあるが、一部は港区・渋谷区・目黒区・大田区に及び、品川宿から一〇キロ以上に及ぶ村もあり、そこから人馬を提供することは容易なことではなかった。これはその後に若干の変動があり、幕末には六二カ村となった。また助郷高も一万七〇〇〇石となった。なお種々の理由で助郷を免除されたり、休役となる村もあったが、その分は他の村の負担となった。
町村名 | 石高 | 町村名 | 石高 |
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荏原郡 | 石 | 石 | |
下高輪町 | 189 | 桐谷村 | 67 |
新井宿村 | 458 | 馬込村 | 518 |
桐ケ谷村 | 360 | 池上村 | 573 |
上大崎村 | 454 | 雪ケ谷村 | 544 |
下大崎村 | 312 | 小山村 | 269 |
戸越村 | 917 | 萩中村 | 262 |
居木橋村 | 230 | 中延村 | 311 |
下蛇窪村 | 275 | 道々橋村 | 150 |
上蛇窪村 | 185 | 白金村 | 340 |
大井村 | 1634 | 今里村 | 327 |
不入斗村 | 569 | 三田村 | 239 |
二日五日市村 | 94 | 下袋村 | 302 |
白金台町 | 98 | 道塚村 | 90 |
谷山村 | 108 | 奥沢村 | 55 |
上高輪町 | 179 | 奥沢新田村 | 407 |
東大森村 | 617 | 下丸子村 | 228 |
西大森村 | 419 | 石川村 | 74 |
北大森村 | 440 | 上目黒村 | 1072 |
糀谷村 | 599 | 鵜木村 | 334 |
女塚村 | 192 | 嶺村 | 834 |
六郷久ケ原村 | 263 | 碑文谷村 | 225 |
堤方村 | 74 | 深沢村 | 446 |
市野倉村 | 162 | ||
豊島郡 | |||
芝町 | 61 | 飯倉町 | 74 |
下渋谷村 | 59 | 金杉町 | 58 |
中渋谷村 | 180 | 今井町 | 67 |
龍土町 | 29 | 下豊沢村 | 139 |
阿佐布(麻布)町 | 290 | 中豊沢村 | 119 |
桜田町 | 64 | 上豊沢村 | 32 |
備考 『品川町史』中巻より作成。
助郷役は二組に分かれて勤めたが、勤番組の村から助郷惣代が選ばれ、宿内の助郷会所に詰めた。助郷惣代は問屋から助郷への人馬の触れあてに不正がないかどうか、ことに宿人馬を使いきってから触れあてているかどうかを監視し、また助郷村々からの出人馬を調べ、その調節をするなどの役目を負っていた。
さて東海道の口宿である品川宿の人馬の継立方法は、他の宿と違う点があった。それは五街道の起点である江戸日本橋の伝馬町が一般の宿とは構成や機能を異にしていたからである。したがって、千住・板橋・内藤新宿の各宿も品川宿と同様であった。伝馬町は大伝馬町・南伝馬町・小伝馬町から成り立っているが、そのうち街道の人馬の継立をするのは大伝馬町と南伝馬町であった。そして、月の前半は大伝馬町は御朱印伝馬、南伝馬町は駄賃伝馬(御定賃銭のもの)を扱い、後半は逆を勤めた。両伝馬町の差し出す人馬の数には定数がなかった。両伝馬町で四宿に継ぎ立てなくてはならず、しかも助郷がなかったからである。また、四宿から両伝馬町に付け送ることはなく、直接宛先まで送った。街道から街道へ付け通す場合も伝馬町は通さず、例えば、品川から板橋なり千住なりへ継ぎ立てた。