南品川宿

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目黒川を境にして、南品川宿と北品川宿と分かれていた。南品川宿は境橋から妙国寺の門前まで、四町二〇間(〇・五キロ)の間であった。文政二年(一八一九)の戸敷は五二七、うち脇本陣が一軒、旅籠屋が三五軒であった。牛頭(ごず)天王社があるので天王横町、室町時代に馬場があったという南馬場町、富士山が見えるという浅間(せんげん)台、その他、一町目・二町目・三町目・四町目・三軒家町などの小字(こあざ)があった。

 神社には貴布袮社があるが、この神社の相殿に神明と祇園牛頭天王とを祀っている。この牛頭天王は南品川猟師町から二日五日市村へかけての惣鎮守で、六月七日の例祭には、神輿を漁師たちがかついで海中を渡御して、そのあと宿中を通御した。祭りは十九日までつづき、その間は旅籠屋の食売女も客に伴われて参詣するなど、昼夜ともに大変な人出であった。貴布袮社の例祭は九月九日であった。

 寺には海徳寺・本栄寺・蓮長寺・妙蓮寺・本光寺など日蓮宗の寺が多かったが、なかでも妙国寺は古くからの大寺で、拝領地二万二〇〇〇余坪(七万三二九五平方メートル)、朱印地一〇石を有していた。三代将軍家光はたびたび立ちより、五重塔を再建させたり、江戸城内にあった駿河大納言忠長の屋敷の表門を賜わったりしたが、いずれも火災でなくなった。

 妙国寺の南隣りにある品川(ほんせん)寺は真言宗で、拝領地四、八〇〇坪(一万五八六四平方メートル)、太田道灌が品川の館から江戸城に移るときに、持仏の本尊を安置して寺を建てたという。その子孫の太田資直(駿河田中城主)が一〇〇石を寄進した。この寺ではこの本尊よりは水月観音が有名であった。むかしこの地方の豪族であった品川氏の家に伝えたものと言われ、武田信玄がかつて甲州に持って去ったが、またこの地にもどったという伝説があった。この門前を観音前といい、茶店が多く、通行人も多くはここで休息した。


第44図 江戸六地蔵の一、品川寺の地蔵

 禅宗の寺では海晏寺が名高い。ここの海辺でとらえた鮫(さめ)の腹の中にあった観音像を本尊にし、その地を鮫洲(さめず)というようになったという伝説があるが、ここは紅葉で知られた。山も庭も楓(かえで)ばかりで、紅葉のころは朱の山をみるようで、千貫紅葉といわれた。江戸内外の紅葉では、ここが第一で、上野や根津権現の境内がそれに次ぐとされた。


第45図 海晏寺のもみじ見の図(『江戸名所図会』)

 海晏寺の末寺に海雲寺があり、本堂の隣りに荒神(こうじん)尊を安置していて、千体荒神として名高かった。毎月二十八日が縁日であるが、例祭は三月二十七・二十八日と十一月二十七・二十八の両日で、神楽(かぐら)の神事があって、多くの人々が参詣した。前に受けた荒神像を持ってきて、新しい像とかえるのである。荒神像を受ける人は、座敷へ案内をして、食事をふるまった。しかし新規に像を受ける人は二〇〇文、古いのと取りかえる人は一〇〇文を出した。

 南品川宿一町目の出鼻に猟師町があり、一般には鮫洲と言っていた。戸数は一三五軒、ここの住民は宿場の負担はないが、将軍家に魚類を納めたり、船役銭を納めた。文政ごろには漁船八五艘があった。ここには寄木明神があり、例祭は正月十四日であった。