荏原郡の東境で、江戸日本橋から二里半のところである。家数は六〇軒。東西に長い村であるが、南は丘で、北になるにしたがって低地となって、谷合が多い。村の東の方を相州街道が通っていた。幡ケ谷・花ケ谷などの小字があり、また山伏塚という塚もあった。多摩川の分水が村内を流れて戸越村に入り、その間に水田が開けていた。
村の鎮守は丘の上にある氷川社で、正月十五日には備射(びしゃ)講が行われていた。ほかに八幡社・諏訪社・第六天社などがあった。寺では天台宗の安楽寺・安養院、浄土宗の霊源寺があった。安楽寺は境内が三、五三八坪(一、〇九四平方メートル)もあって広かったが、その奥に火葬場があり、近郷の寺院へ葬るものは、ここで火葬にした。