品川宿の南に接した村で、東海道に沿っていた。村高は一、六五七石余の大村であった。後北条氏支配の時代には、家数は一六軒で、その子孫を古百姓といっていた。子孫のほかに外より移住する者も多く、文化・文政ごろには五六二軒に達していた。近世になってからは幕領である。
南品川の海晏寺門前につづいたところを御林町というのは、もとは幕府の御林があったからである。ここは漁師が多くて一〇〇軒もあり、魚船が五〇余艘あって、御林浦といわれていた。そのつづきが浜川町で、町の中ほどを浜川が流れているのでその名がついた。浜川町のうちで、南の方へ少し隔って三十軒家があった。家数が三〇軒ほどあったからという。そこに、むかし宿場への入口があって、喰違(くいちが)いの土手があったので、食喰跡が残っていた。
村の鎮守には鹿島社があり、御林町には八幡社があった。寺院には浄土真宗の西光寺があり、その本堂前には桜の古木があり、高さ三、四丈(一〇メートルほど)に及んだ。しかし桜では、村の東北にある、同じ真宗の来福寺が有名で、木数も多く、種類も豊富であった。客殿前に延命桜と梶原松があって、梶原景季が地蔵信仰のために植えたといい、後の人も地蔵信心のある人は桜を植えたのだという。また光福寺には霊泉があり、それを大井と名づけ、大井村の名もそこから名づけたという。この寺の中興開山の了海上人の産湯につかったという伝説がある。
大井村は人参などを産して、品川葱(ねぎ)・大井人参といって名物であった。
大井村の先の方には鈴ヶ森の刑場があった。江戸府内の犯罪者のうち、獄門以上の重い死刑は、北は浅草(小塚原)、南は品川で行われたが、品川の刑場が普通には鈴ヶ森と呼ばれている。慶安四年(一六五一)に、由井正雪の乱に関係した丸橋忠弥らを処罰したときに設けられたという。隣村の不入斗(いりやまず)村に鈴ヶ森八幡宮があり、それに近接していたから、いつの間にか鈴ヶ森の御仕置場というようになった。