鷹場

123 ~ 124

 ところで江戸の周辺は、だいたい五里以内(約二〇キロ圏)の村々は幕府の鷹場に、その外周およそ五里以内(約四〇キロ圏)は御三家等の鷹場に指定されていた。幕府の鷹場は寛永五年(一六二八)にはじめて設定され、同二十年には鷹場の管理にあたる一〇人の鳥見(とりみ)役人が置かれた。その後、五代将軍綱吉の時代に生類憐(しょうるいあわれ)みの令が発令され、これにともなって放鷹の制度もまったく廃止された。しかし、享保元年(一七一六)に鷹狩の好きな吉宗が将軍になると、廃止されていた制度は次々に復活され、さらにいっそう整備された形となった。すなわち、再び鷹場となった江戸から五里以内の地域は葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・目黒筋・品川筋の六筋にわけられ、再置された鳥見が目黒掛り、品川掛りというように各筋に配属された。鳥見の権限は強化され、鷹場に指定された村々は、家作の新築や増築、屋根の葺替えや水車の建設、立木伐採に至るまで鳥見の許可を得なければならなかった。なお鷹場内には天領・大名領・旗本領・寺社領が混在していたが、鷹場組合はこれらの支配をこえて組織されており、のちの組合村に類似する点が少なくなかった。