江戸時代の農民が負担する租税には、田畑にかけられる本年貢(本途物成(ほんとものなり))、山林・原野などの収益にかけられる雑税(小物成(こものなり)・運上・冥加)のほか、高掛物(たかがかりもの)・労役などがあった。
本年貢は単に年貢ともいい、耕地にかかる基本的な租税であり、一村単位に賦課された。その額は検地によって決定された村高に租率をかけて算出されるわけであるが、実際の徴租法をみると、毎年収穫前に稲の、みのり具合を調べて、その結果にもとづき課税する方法(検見(けみ)法)と、過去数年間の収穫量の平均をもとにして年貢率を定め、その後一定期間豊凶にかかわりなく定額年貢を取り立てる方法(定免(じょうめん)法)とがあった。
関東の幕領ではおもに反別(耕地面積)に一反あたりの基準取米(これを根取米(ねとりまい)という)を乗じて年貢量を算出する反取法が行われていたが、不作の年には収穫の不足額に応じて反別を減らし(畝引(せびき))、残りの反別に根取米を乗じて貢租額を算定する畝引(せびき)検見(根取検見・反取(たんどり)検見)の方法がとられていた。品川区域では下蛇窪村の延宝八年(一六八〇)から明治四年(一八七一)までの年貢免状が残っているが、これによると、延宝八年から享保九年までの年貢のとり方は、畝引検見の方法であったことがわかる。
検見法は実情に即した年貢のとり方ができるという利点はあったが、事務が煩雑な上、村方においては検見役人の送迎・接待等に経費がかさみ、また、検見の過程で不正が行われやすく、さらに検見が終わるまで収穫ができないなどの欠点もあり、享保改革期に至って定免法が広く採用されることになった。
下蛇窪村で定免法がはじまるのは享保十年(一七二五)からで、最初は同十二年までの三カ年季であった。その後は、五カ年季の定免が長く続き、寛政八年から十カ年季の定免となり、維新を迎えている。なお定免期間中にいちじるしい凶作によって、定められた年貢を納入できない場合には、一時的に定免の扱いを解き、検見によって年貢量を定めることがあった。これを破免(はめん)という。下蛇窪村では、享保十年から明治四年までの一四七年間に一三回の破免検見が認められている。例えば、全国的な大凶年となった天明三年の場合、同村の本来の年貢額(田方)は二四石九斗三升四合であったが、破免検見の結果納入された年貢額は一三石三斗四升であった。なお下蛇窪村の場合、定免年季の切り替えの際の増減はいたって僅少であった。
ところで本年貢は米でおさめるのが原則であったが、関東の場合、畑にかかる年貢は最初から貨幣納を認められていた。関西では三分一銀納法といって、畑が耕地の三分の一くらいあるのが標準であるとして、年貢高のうち三分の一を銀に換算して納める方法がとられていた。