次に品川区域の村々の小物成・運上・冥加についてみてみよう。下蛇窪村では貞享元年(一六八四)から草銭という名目の小物成がかけられている。しかし、これは元禄十年(一六九七)には姿を消して新たに野銭と藪銭という小物成が出現している。このうち野銭が賦課されていた土地は天保十四年(一八四三)に半分以上見取地にまわされて、見取年貢がかけられている。また安政六年(一八五九)からは新たに質屋稼冥加永が加わっている。
年貢免状からうかがうところでは谷山村には寛政七年(一七九五)当時、林銭・藪銭・野銭がかけられており、二日五日市村に対しては文久三年(一八六三)当時、林銭・野銭・芝野銭・芝間銭・質屋稼冥加永がかけられている。
小物成は耕地以外の土地の用益や産物に対してかけられる租税なので、下蛇窪村や谷山村・二日五日市村などの典型農村においては、小物成の種類や量はあまり多くなかった。これに対し、大井村や品川宿は街道に沿った町場を持ち、また海に面していてそこからの収益もあったので、小物成・諸運上の種類は、はるかに多様であった。大井村の文化十一年(一八一四)の年貢免状には、林銭・藪銭・芝銭・野銭のほかに、御菜肴代・海苔運上・水車運上・砂利運上等の雑税が並んでいる。御菜肴代は御菜八カ浦(後述)のひとつである大井御林浦の上納鮮魚が金納化されたものである。海苔運上は当時盛んに行なわれていた養殖業に対するもの、水車運上は水車稼ぎに対するもの、砂利運上とは大井海岸で砂利を採取することに対する課税であった。
品川宿における雑税の種類はさらに多く天保十四年(一八四三)には南品川宿は船役銭(目黒川で使っていた船に対する税)・林銭・藪銭・網干場銭(網干場に使っている浜地に対する税)・芝間銭・海苔運上を、猟師町は海苔運上・船焚運上(品川浦に諸国の廻船が寄港して、船を長もちさせるために船底を茅で焚くが、その茅を売って得られる収入に課せられたもの)・旅猟船運上(毎年六月上旬から九月下旬まで、品川の沖合で房総の猟師たちが鰆(さわら)・鰯(いわし)網猟をするが、その船から一艘につき永一〇〇文をとりたてて上納するもの)・猟師町裏築立地野永(漁師町裏の造成地に対する税)・御菜肴代を、北品川宿は藪銭・林銭・芦野銭・芝稲干場銭(稲干場に使っている芝地にかかる税)・御殿山御林内櫨絞(はぜしぼり)所拝借地冥加永(天保七年に神宝方棟梁家城信七郎という者が、御殿山御林内に櫨絞所を作るために借りた土地に対するもの)・高輪空地冥加永(品川宿の緊急避難場所として確保してある高輪の空地に対するもの)を納めている。