村高に応じて賦課される税を高掛物(たかがかりもの)という。天領の村々に対しては、御伝馬宿入用・六尺給米・御蔵前入用のいわゆる高掛三役が課せられている。御伝馬宿入用は、はじめは宝永四年(一七〇七)に各宿におかれた宿手代に給米を支給するために賦課されたものであるが、正徳二年(一七一二)に宿手代が廃止されたのちも引き続いて徴収されて、五街道の問屋・本陣の給米、宿場に費用にあてられた。税率ははじめ一定していなかったが、享保六年(一七二一)に高一〇〇石につき米六升と定められた。下蛇窪村では享保五年から賦課されているが、このときの納入額は一斗九升三合であった。下蛇窪村の村高は二七五石余であるから、このときの税率は一〇〇石につきおよそ七升ということになる。享保八年以降は、規定通り高一〇〇石につき六升の割合で、一斗六升五合を納めている(享保六、七年分は不明)。弘化二年(一八四五)には村高がふえた関係で御伝馬宿入用も一合増え、一斗六升六合となっている。
六尺給米は幕府で使役する人夫に支給されたもので、その税率は、やはり享保六年に高一〇〇石につき米二斗と定められている。下蛇窪村では享保十七年から徴収され、五斗五升一合を納めている。規定通り計算すると五五〇・六七二合となるので、〇・六七二合を切りあげて一合としたことが判る。端数を切り捨てて、五斗五升を納入している年もある。
御蔵前入用は、浅草にあった幕府の米蔵の維持費として徴収されたもので、元禄二年(一六八九)以来、高一〇〇石につき、上方は銀一五匁、関東は永二五〇文の割合で賦課された。下蛇窪村では元文五年(一七四〇)から徴収され、六八九文を納めている。この場合も規定では六八八・三四文となるが、端数は切り上げられている。
ところで、下蛇窪村の高掛三役のうち御伝馬宿入用は毎年決まった額が納入されているが、六尺給米と御蔵前入用については、助郷役を勤めた年は免除になっている。もっとも、まったく賦課されなかったわけではなく、村高から助郷高を引いた高については、規定通りにかけられている。助郷役を勤める代わりに六尺給米と御蔵前入用を免除したことは、その他の村々についても同様であった。
村高に割りかけられる租税としては、この外に国役があった。これは大河川提防の修築費、朝鮮・琉球使節の参向帰国道中費、禁裏造営費などの臨時の費用を、特定の数カ国に幕領私領の別なく石高割で負担させるもので、品川区域においても川々国役銀などが徴収されている。