つぎに労役負担であるが、品川宿には、いわゆる伝馬役が課せられており、南品川宿猟師町と大井村御林猟師町に対しては、浦役(将軍の御成のときに海上取締りのため番船を出したり、御城米船が風波に逢ったり、島々へ罪人を送る船が出るときには引船・番船を差し出したり、江戸及びその周辺が洪水のときに救助船を差し出したりする。)が課せられていた。
農村部については前述の助郷役のほか、様々な名目の労役が課せられていたが、下蛇窪村に対する文政七年の労役をみると、御拳場(こぶしば)場所拵人足・御成之節御焚出場御用人足・御成之節御道具持送り持返し人足・駒ケ原(将軍家の御狩場、駒場原のこと)諸御用人足・御三卿様御出之節御用人足・品川宿江御鷹匠様御泊り之節水夫人足など、鷹場になっているためにかけられているもののほかには、宿場圦橋(いりはし)御普請助合人足・品川御殿山下御鉄炮稽古場補理人足・品川東海寺夜番人足・品川東海寺近辺出火之節火消駈着人足などがあった。東海寺の夜番は寛永十六年(一六三九)に始まり、近隣の村々から毎夜九人ずつの人足がかり出されて、境内四カ所に設けられた番屋に詰め、夜番をするもので、下蛇窪村からは当時月に六人ずつ、年に七二人の人足を出していた。東海寺近辺に火事があったときの駆付人足は近郷二二カ村から計五〇〇人が駆け付けることになっており、下蛇窪村は当時一六人を負担していた。