江戸湾にはいくつかの漁業専業者部落があり、これを猟師町(浦)といった。品川区域においては、南品川(宿)猟師町(品川浦)と大井(村)御林猟師町(御林浦)の二つの猟師町が形成されていた。
『新編武蔵風土記稿』によると、品川浦の漁民集落は最初、南品川宿三丁目にあったが、明暦元年(一六五五)朝鮮使節の参府のときに、漁民に対して宿並に伝馬役が課せられたので、浦役の上に伝馬役を課せられては過重負担であるといって課税免除を願ったところ、宿内の居住を許されず、目黒川河口の砂洲に移された。そこは当時兜島とよばれて人家は皆無であったという。
御林浦の場合は、万治元年(一六五八)に芝金杉の海手(うみて)約三町ほどの地に因幡鳥取藩主松平相模守の屋敷を築くことになって、御用地となり、そこに住んでいた猟師六戸が大井村の御林という海岸沿いの場所に代地を与えられて移転し、漁業を営んだので、ここを御林猟師町というようになったという。因州組と唱えている猟師は御林浦成立以来の旧家で、芝金杉浦からわかれたものであるという。
南品川猟師町は南品川一丁目から目黒川に沿って突き出た南北三町二〇間余り、東西二〇間の帯状の地である。成立期の事情から南品川宿に属していたが、単独の名主がおり、村としての行政上の機能を備えていた。すなわち名主は大島氏が世襲し、年寄・組頭の村役人のほかに、猟師頭が小前猟師を代表していた。猟師惣代ともいい、村方の百姓代にあたるものである。元禄八年(一六九五)当時の戸数は四一戸であったが、次第に増えて、天明三年(一七八三)には二倍強の九二戸、文政十一年(一八二八)には三倍強の一三五戸となっている。
大井御林猟師町は大井村に属しており、南品川猟師町のような単独の村役人はいなかった。ただ品川浦と同様猟師頭がいて、猟師たちを統轄していた。
品川浦・御林浦は御菜肴八カ浦のひとつとして、収穫した鮮魚を幕府に献上する義務を負っていた。御菜肴八カ浦とは元浦の本芝・金杉をはじめとして、品川・御林・羽田・生麦・神奈川・新宿の浦々である。但し、御菜肴を献上したのは必ずしも八カ浦に限ったことではなく、佃島や葛西・深川の猟師町も八カ浦と同様とれた魚を幕府に献上していた。
享保二年(一七一七)の本芝・金杉両浦の書上によると、両浦の肴の献上日は毎月四回、六日・十三日・二十一日・二十七日で、当番の猟師が前日より猟をした分を残らず御菜小屋へ持参し、猟師頭・町内の家持・組頭・名主が立ち合ってよく吟味して、代官所へ持参することになっていた。肴は時により違うが、石ガレイなどの類が多い。引き揚げてすぐに撰んで献上するので、種類も数も一定していないと述べている。なお品川浦からの献上は月三回であった。このほか臨時の献上を命じられることも少なくなかった。
定例の現物納は寛政四年(一七九二)に中止され、金納となった。しかし、文化七年(一八一〇)から、御菜肴代を上納するほかに、一カ月に一度再び生魚を献上することになった。八カ浦が月番で献上したが、当番の浦は上納日の朝六ツ時までに馬喰町の鷹野役所へ現物を持参しなければならなかった。弘化四年(一八四七)に御林浦の納めた魚は鰈(かれい)三〇、あいなめ三〇、車海老一〇〇であった。なお御菜肴献上以外の猟師町の負担(浦役・諸運上)については前述したのでここではふれない。