天保十四年(一八四三)の記録によると、品川沖では〓(こち)・鮃(ひらめ)・芝海老・沙魚(はぜ)・白魚・あいなめ・烏賊(いか)・きす・〓(うつぼ)・石もち・小鯛・黒たい・鰡(ぼら)・さより・鰈(かれい)・ほうぼう・あかえい・鰆(さわら)などを四ツ手網・手繰(たぐり)・細縄船を使ってとりあげ、具類は赤貝・蛤蜊(はまぐり)等を巻猟・貝桁などの猟具でとり上げ、鰆(さわら)網の場合は本牧沖から上総・下総・江戸前まで稼ぎにいくとある。品川浦も御林浦も貝類の採集などはそれぞれの浦の範囲内でおこなっていたが、網猟の場合などは沖合に乗り出し、収穫したのである。すなわち江戸湾内は沿岸漁村の共同漁場で、品川の猟師が対岸の上総・下総まで出かけることもあれば、房総の猟師が江戸前まで稼ぎに来ることもあったのである。
ただし入会漁業を支障なく行うためには漁法・漁具等の協定を結んでおく必要があった。すなわち文化十三年(一八一六)、武蔵・相模・上総三カ国四四カ浦で申し合わせて、漁具を限定し、新規の漁猟を禁止している。また浦方以外の村方(磯付村)の漁猟をきびしく規制している。
品川浦・御林浦の漁獲物は大部分芝金杉・本芝の魚問屋で売りさばかれた。地元では南品川一丁目の通りに朝市が立って、とれたばかりの魚を販売していた。