海苔養殖業の創始

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 品川はまた海苔(のり)の産地であった。品川で採れた海苔は浅草で販売され、江戸の名産浅草海苔として全国にその名が知られた。

 品川浦で海苔の養殖が行われるようになったのは延宝頃のことといわれている。品川浦は御菜肴を献上する御菜浦で、魚をかこっておく活簀(いけす)を楢や雑木の枝(麁朶)でつくろったが、この活簀に海苔がはえたのをみて、追々麁朶(そだ)を建てて、これに付着する海苔を採取するようになった。この麁朶をひび麁朶といった。


第58図 浅草のりの図(『東海道名所図会』)

 麁朶ひび立てによる海苔の養殖はその後次第に産地がひろがり、十九世紀初頭には、南品川宿・同猟師町・品川寺門前・海晏寺門前・妙国寺門前・大井村(以上品川区内)不入斗村・東大森村・北大森村・西大森村・糀谷(こうじや)村の一一カ町村から産出された。

 海苔養殖が盛んになるにつれて、幕府は御膳海苔の献上と、海苔運上とを命じた。海苔運上は延享三年(一七四六)から賦課され、はじめは稼人の軒別であったが、宝暦七年(一七五七)から養殖場を長さ五〇間・横三〇間を一カ所として区画した箇所割になった。同年のひび箇所数は第10表に示したように九カ村合計二四カ所七分五厘である。このうち三大森村が一五カ所、大井村が四カ所で、品川地区は僅少である。その後文化十年(一八一三)に至って、田畑における検地ともいうべき、海苔養殖場の測量が行われて、数多のひび箇所がうち出されている。表に示した通り、九カ村合計一四五カ所九分三厘一毛に達し、宝暦七年時に比べると約五・九倍増加している。海苔養殖業のいちじるしい発展ぶりがうかがわれる。

第10表 ひび箇所数の増加
村名 宝暦7年 文化10年
箇所 分 厘 箇所 分 厘 毛
東大森村 6 32. 0 7 1
北大森村 5 26. 7 2 5
西大森村 4 21. 3 8 0
不入斗村 2.   5 3. 7 4 5
大井村 4 34. 7 6 5
海晏寺門前 1 12. 6 4 1
品川寺門前 0.   5
南品川宿 0. 7 5 14. 6 0 4
同猟師町 1
24. 7 5 145. 9 3 1

 

 天保九年(一八三八)当時の海苔稼ぎ人数は、三大森村・海晏寺門前・品川寺門前・南品川宿・同猟師町の八カ町村合わせて七六五人で、このうち海苔株を持っているものは六八八人、無株の小作人は七七人である。課税単位が軒別から箇所割になって、本来共有の地先海面が稼人の所有となり、海苔株が形成されたのであるが、なかには資金不足で、海苔株を抵当にして借金をし、返済ができずに無株の小作人となるものがでてきたのである。総家数に対する海苔稼人の比率はおよそ三軒に一軒の割合であった。

 海苔づくりの方法を簡単に述べておこう。まず夏の間に麁朶ひびづくりをする。麁朶ひびは楢(なら)・槻(つき)・樫・椚(くぬぎ)・榛(はしばみ)等で作られる。麁朶は近郷のほか、相模・上総・下総から船で送られてくる。寛政十年(一七九八)当時の麁朶代金は一把につき三〇文くらいであった。一把の麁朶から葉をこき、根をとがらせて一五、六株くらいになったという。長さは水深に応じて四、五尺から一丈四、五尺に調節された。ひび建ては品川では秋の彼岸前後に汐時をみて建てられた。養殖場は長さ五〇間横一尺を一作と定め、一作につき麁朶ひびを三〇〇株位ずつ建てた。

 宝暦七年に大井村・海晏寺門前・品川寺門前・南品川宿のひび建てに要した費用は、麁朶の購入代金、麁朶造りの人足賃銭、ひび建ての手間賃を合わせて鐚(びた)二三四貫三六六文であった。金に直すと五五両三分永五二文一分となる。


第59図 のりのひびたて(『江戸名所図会』)