品川宿のまつり

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 品川宿の祭礼は、江戸時代には六月七日から十九日までの十三日間にわたって行われていた。

 北品川宿と歩行新宿の鎮守は稲荷社(相殿に祇園・貴布袮の両社現在の品川神社)で、南品川宿の鎮守は貴布袮社(相殿に神明・祇園の両社、現在の荏原神社)であるが、両社とも相殿社の祇園午頭天王社の祭礼が最も盛大に行われ、北ノ天王祭そして南ノ天王祭と呼ばれて、六月に行われていたのであった。

 南ノ天王祭は神輿の海中渡御がその中心である。

 六月七日の朝五ツ半(午前九時)神社を出発した神輿は(宮出(みやだし))、貴船門前から東海道に入り、南品川宿の一町目から二町目そして馬場町(南馬場)に入り、本栄・蓮長・妙蓮・願行・海蔵各寺の門前と常行寺新門前を通って、ふたたび馬場町に入り、東海道を南下し三町目・四町目・妙国・品川・海雲・海晏各寺の門前から大井村境に至り、ここから海岸に出、こんどは海岸づたいに北上して、神社に還幸し、こんどは洲崎の猟師町に入るといコースをとった。

 大井村境で神輿は宿の若者から猟師町の若者にバトンタッチされ、猟師町のかつぎ手たちは神輿を海中の背丈もある程深い所までかつぎ入れ、神輿を海水にひたした。『十方庵遊歴雑記』は神輿の海中渡御にあたって、かつぎ手の一方が「ナンタァ」というと、他方が「サアイ」と答え、「ナンタァ」「サアイ」の掛け声に合わせて神輿が進行したと記している。

 夕方貴布袮社に戻った神輿は、こんどは洲崎の猟師町の人たちにかつがれて猟師町を巡幸し、さらに北品川宿・歩行新宿に入って宿の出はずれまでいって引返し、明け方南品川宿の本社に帰ってきたと『遊歴雑記』は記している。


第61図 荏原神社神輿海中渡御
大正15年6月7日、南品川7丁目より入した瞬間(『品川町史』)

 六月七日から十九日までは、南品川一町目の御仮屋に安置され、宿内の人びとの参詣を受けた。

 六月十九日の朝五ツ半(午前九時)、神輿は御仮屋を出発し、東海道を一町目・二町目・三町目・四町目と南下し、妙国寺門前から品川・海雲・海晏と往還附の門前町を渡御し、再び四町目に戻ってこんどは常行寺表門前・二日五日市村から馬場町に入り、本栄寺門前から始めてこのあたり六カ寺の門前を通り、後地を通って、神社に還幸した。

 この海中渡御は、宝暦元年(一七五一)葛飾郡二合半領番匠面(ばんしょうめん)村(現在の埼玉県三郷市番匠面)の百姓某が、野菜を品川に運んでの帰途、海中に光るものを発見し、神面一面を拾い上げ、自宅に持帰ったところ、悪夢が続くので、面を寄木神社に奉納し、神饌として稲穂を献じた。神面はのち神職のいる貴布袮社(荏原神社)に移されたが、年一回海水を浴せると農作物やノリは豊作、漁業は大漁になるということで始められたといわれている。

 また、この神面を拾い上げたあたりは洲であったので、天王洲と名づけられたといわれている。

 北ノ天王祭は神社の大神輿を丘陵の突端にある境内から正面の急な階段をかつぎおろすことが、そのクライマックスであった。


第62図 品川神社大神輿渡御(昭和50年)

 六月七日の朝、神社を出発した大神輿は、東海寺・清徳寺両門前道を通って、東海寺山内の西門を出、御殿山下稲荷門前通から北馬場町を通って北品川本宿に入った。本宿に入ってからは東海道を南下して南品川宿との境の品川橋までいって引返し、こんどは北上して、一町目・二町目を通って歩行新宿に入り、新宿一町目・二町目・三町目と進んで八ツ山まで大神輿は運ばれ、ここで再び引返して本宿三町目の溜屋(たまりや)横丁から浜通りを通って陣屋横丁(本宿一町目と二町目の境、海側の横丁)に設けられた御旅所に安置され、六月十九日までここに安置されて、この日帰社した。

 大神輿は各門前あるいは各町内の境で、それぞれの町内に担ぎ手につぎからつぎへとバトンタッチされたが、この神輿のバトンタッチは神輿の町内渡しと呼ばれ、渡す方、受ける方双方の町内の惣町(そうちょう)(祭典委員)・若い衆がその境で手じめをし、引渡しを行った。

 本宿・新宿の東海道を渡御するときは、道の両側にある旅籠の飯売女が見物するので若い衆たちはここで一層の気勢をあげたのであった。

 北品川の祭礼には、各町からそれぞれ特色のある山車(だし)が出た。江戸後期には

  北品川一町目  長刀鉾(なぎなたぼこ)

  北品川二町目  笠鉾

  北品川三町目  龍虎鉾

  歩行新宿一町目 龍神鉾

  歩行新宿二町目 鈴鉾

  歩行新宿三町目 龍神鉾

  馬場町     かんこ鉾

 以上のような鉾が出されたことが、「品川神社文書」に記されている。