農村部のまつり

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 農村部の祭礼は品川宿の祭礼とはやり方が異なった。都市部の祭礼は天王祭のように夏祭であるが、農村部の祭礼は五穀成熟を感謝する秋祭として行われ、神輿の渡御や山車の巡行あるいは神酒所の設置はない。このような形は明治以降の都市化が始まってからの傾向であった。江戸期の祭礼は、神社と氏子の村人のみの行事として行われ、祭礼にあたって、大井の鹿嶋宮(現在の鹿島神社)や中延の八幡宮(現在の旗ケ岡八幡神社)では濁酒(どぶろく)や甘酒が村人によってつくられ、これが氏子の参詣者に振舞われたのである。

 また大井の鹿嶋宮では九月十九日の祭礼に際して、村人が境内に桟敷をつくって素人相撲に興じ、戸越八幡の九月二十八日の祭礼にも境内で相撲が行われた。下蛇窪神明宮(現在の天祖神社)の九月十六日の祭礼では村人が境内に仮設の舞台をつくって、田舎芝居の役者を呼び、芝居を観覧させるということも行われた。

 農村部の神社は殆んど神仏混淆であったので、神社の祭事は別当寺の住職が行っていた。

 大井の鹿嶋宮の祭礼は来迎院住職が神前で護摩を焚き読経を行い、これが終ると住職・惣代・氏子の村民一同が来迎院の客殿で会食をした。

 大井の御林猟師町(鮫洲)の鎮守御林八幡宮は、来迎院と来福寺とが隔年に交替で祭事を行っていたし、大井の浜川の鎮守神明宮(現在の天祖神社)は来福寺持であったが、来迎院の住職も手伝いに行ったと来迎院住職の「年中行事その他書留」(江戸後期)に記されている。

 年の始めに、その年の豊凶を占なうため神社で行われる歩射(ぶしゃ)の神事は、大田区から品川区にかけての各地域で行われていたようで、一月十五日に行われる前記の中延八幡の甘酒祭には「おびしや」と呼ばれる歩射神事が執行され、ヨトドメの木でつくった弓四張で、神職・村総代・宮総代・一般の村民の順で的に矢を射った。この「おびしや」のあとに甘酒が振舞われるわけである。桐ケ谷の氷川社(西五反田五丁目)でも一月十五日に「備射講(びしゃこう)」が行われたことが、新編武蔵風土記稿に記されている。