江戸時代には実に多種多様の神仏が、庶民によって信仰されていた。
病気や災害に対して、充分な防衛策をもたなかった当時の庶民は、日常、無病息災つまり病気にかからないこと、震災や風水害そして火災のないことを神仏に願い、万一病気になればその平癒を神仏にすがったのであった。
このように神仏に願うという行為が日常生活の中で、大きな意義を持っていたので、品川宿でも農村部でもあるいは漁村部でも、いろいろな神や仏がまつられていて、人びとに信仰されていたのである。
とくに品川宿の場合は、宿内に多数の寺や神社があるので、この多くの寺や神社がそれぞれの宗派や教義に合わせて諸仏諸神を勧請し、庶民の要請に答えていた。
江戸時代に、仏教の諸尊の中で比較的庶民に人気があったのは、観音(観世音菩薩)と地蔵(地蔵菩薩)である。
品川宿でも農村部でもこの傾向は強く、新編武蔵風土記稿に記された品川区地域の寺院の本尊を調べてみても、阿弥陀如来・釈迦如来・薬師如来そして日蓮宗系の首題・釈迦・多宝の型式についで、聖観音や十一面観音など観世音菩薩を本尊とする寺も多く、また地蔵菩薩を本尊とする寺も一カ寺あって、寺院の本尊は釈迦や阿弥陀といった如来像が主体となっている中に、菩薩である観音と地蔵が進出しており、また風土記稿で寺院境内の諸堂を調べてみても、観音堂が四カ所でもっとも多く、地蔵堂と閻魔(えんま)堂がそれぞれ三カ所でこれに次いでおり、さらにこれらの各寺院の墓地を見てみても、江戸初期から江戸後期にかけての数多くの舟型の墓碑にも、観音と地蔵の像が多く見られ、その信仰の根強さを見せている。