稲荷は古来庶民にとって非常に身近な神として信仰され、江戸時代には、江戸の市中に多いものとして「伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれたように、江戸市内の各所に数多く祀られていた。
稲荷は本来農耕の神とされていて、神道では宇賀魂神(うかのみたまのかみ)あるいは倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と同一神と説かれ、また保食神(うけもちのかみ)も同じ神として祀られている。そのため農村でも村むらに祀られ、また品川区やその周辺の地域では、農家の屋敷神としても祀られていた。
江戸市街の延長である品川宿でも、各町に町内稲荷が祀られていたが、稲荷の信仰は仏教とも結びつき、〓枳尼天(だきにてん)とされて寺院の境内にも稲荷社が祀られていた。
品川宿の各町内に祀られている主な稲荷社をあげてみると、
谷山稲荷社 歩行新宿三丁目東側 (北品川一丁目)
陣屋横町稲荷社 北品川宿陣屋横町 (北品川二丁目)
火防稲荷社 北品川宿馬場町 (北品川二丁目)
稼穡(かしょく)稲荷社(荏川稲荷社) 南品川宿荏川町 (北品川二丁目)
三岳(みたけ)稲荷社 南品川宿三丁目西裏通三岳 (南品川二丁目)
御蔵山(おくらやま)稲荷社 南品川宿郷蔵脇字御蔵山(南品川一丁目)
稲荷森(とうかもり)稲荷社(東関森稲荷社) 南品川地内広町耕地 (南品川四丁目)
市場稲荷社 南品川宿裏五丁目 (南品川二丁目)
幸稲荷社 南品川宿海晏寺門前 (南品川三丁目)
松下稲荷社 南品川宿裏五丁目 (南品川五丁目)
以上のとおりである。
これらの稲荷社は、それぞれの町内の人たちによって維持されていて、祭礼は二月初午の日に行われ、その前夜、社の入口の西側には地口(ぢぐち)行灯がいくつも並べられ、新しい旗が上げられ、町内の世話人が赤飯をつくって、子供達や参詣者に振舞った。
品川宿では子供たちが「チンチョウ オクレ チンチョウ オクレ」といいながら町内の家々を廻って、蜜柑や菓子をもらって歩いた。
これに対して農村部の初午(はつうま)の祭は少々やり方が異なり、各家ごとの祭と村全体の行事と二つが別個に行われていた。
大崎・大井・荏原地区の農家では、家々に屋敷神として稲荷が祀られていて、各家ごとにそれぞれ伏見稲荷・豊川稲荷・蒼守(かさもり)稲荷など各所の異なる稲荷を勧請していた。二月初午の日には新しい幟を立て、油揚・赤飯などの供え物をするが、鎮守の神職を呼んで祝詞を上げてもらう家もあった。子供達を集めて餅や菓子を配る家もあったので、農村部でも初午は子供達の楽しい日であった。
農村部の各地域では村落単位に稲荷講がつくられていて、初午の日鎮守の境内にある稲荷社にお詣りしたあと、村内の大きな家を宿にして、宿で赤飯・煮しめなどをつくったり、料理を持寄ったりして酒宴を行った。
この集まりを神社の社殿で行う地区もあり、また稲荷講の集まりに子供達を集めて菓子・餅・蜜柑などを配る地域もあった。
品川区地域の日蓮宗や天台宗・真言宗・時宗・浄土宗臨済宗の寺院境内には稲荷社が祀られていることが、新編武蔵風土記稿によって知ることができる。
南品川の時宗海蔵寺境内にある宝蔵稲荷社は、〓枳尼天を祀っており、海蔵寺門前の町内稲荷でもあって、土地の人たちは火防のご利益があるとして崇敬している。明治二十三年には町内の稲荷講中の人びとが、火災で焼失した社殿の旧地に新社殿の再建を行っており、寺院境内の稲荷社には町内稲荷を兼ねている神社もあるという一つの例を示している。
また北品川養願寺の境内には豊川稲荷社が祀られ、毎年一月二十三日が縁日で賑わったといわれている。