六十日に一度廻ってくる庚申(かのえさる)の日に行われる庚申待は、本来中国の道教の思想による、この日人の睡眠中に体内から脱け出して、天帝にその人の罪過を報告するという三尸(さんし)を抑止するために行われる徹夜と戒慎の行事が、娯楽の少ない農山村のレクリエーションとなったもので、江戸時代には各所で行われた。
品川区内では大崎地区・大井地区・荏原地区の農村地域に庚申待の伝承が遺っているが、品川宿や品川浦・御林浦の猟師町には庚申待の伝承が遺っていない。
しかし区内には各地域に約五〇基の庚申供養塔が立てられていて、寛永十二年(一六三五)から現代まで造立がつづいている。この庚申供養塔の分布を見ると、品川地区にも六基立てられており、明治以降、この地域で庚申待が行われたという伝承は遺っていないけれども、江戸時代には何等かの形で庚申信仰が行われていたことを示している。
品川区内の庚申待は、古老の伝承によると居木橋・桐ケ谷・大井・中延・戸越などの各村で行われていたことがわかる。殆んど庚申の日に行っており(桐ケ谷では毎月一回申(さる)の日)、講員の家を宿にして夕方宿に集まり深夜散会したが、中延村では宿に一泊している。信仰の対象は庚申の掛軸であるが、その内容はわからない。中延村の中通りでは十界曼荼羅を掛け、その前で題目を唱えるが、その他の講は格別経文や咒文を唱えることはしない。
庚申待の食事は白米の飯に煮しめが主体であったが、品川区の農村部の農民たちは、日常米麦半々から米三麦七といった混合率の主食をとっていたので、白米の飯というのは飛切りのご馳走になっていた。
約五〇基の庚申塔は、そのうちの半数以上二十八基が十七世紀に造立されたもので、古い塔が多いことが特色となっており、型態では一般的には駒型が多いという傾向の中で、板碑型と呼ばれる塔(一一基)と笠塔婆型の塔(一〇基)が多いことが目立っている。塔に刻まれた像は、青面全剛が圧倒的に多く二五基を数え、他に彫像があるのは、地蔵一基、阿弥陀一基のみで、この点は他の地区といささか趣を異にしている。