念仏を唱え、極楽往生を願う同信者の集まりが、念仏講である。念仏の集まりは、日を定めて行われ、寺で行われる場合と講員宅を順番に宿として行われる場合があった。
品川区内の念仏講の分布は、まず区内に造立されている念仏供養塔の分布によって把握できる。
念仏講の文字が確認できる供養塔は、
(造立年代) (型態) (彫像) (所在場所) (念仏講関係銘文)
万治元年(一六五八)笠塔婆型 無 北品川一丁目善福寺 念仏講為逆修菩提也・善福寺住持想阿
寛文七年(一六六七)笠塔婆型 無 大井六丁目来迎院門前 大井村念仏講中
寛文九年(一六六九)舟型 阿弥陀如来 大井四丁目西光寺 為念仏講中
寛政元年(一七八九)笠塔婆型 無 西五反田四丁目安養院 念仏講中(西国秩父坂東百番順礼供養を兼ねる)
以上のとおりで、北品川宿一基、大井村二基、桐ケ谷村一基を数えることができる。北品川宿と大井村の供養塔は江戸初期の造立で、これらの地域に古くから、念仏講が組織されていたことがわかる。伝承の面から見ても大井村には十四日講・十五日講・十六日講の三つの念仏講が地域別に組織されていて講名となっている日にそれぞれ集まりを行っていた。講員の家を順次宿にして百万遍の大数珠の囲りでこれを繰りながら、音頭とりのたたく鉦に合わせて「南無阿弥陀仏」の念仏を繰り返えし唱和した。
念仏講は戸越村・居木橋村にもあったといわれ、戸越村中通り(戸越四丁目付近)の念仏講は、毎月十四日と春秋彼岸の中日、盆の十四・十五両日の夜、「月念仏」と称する百万遍念仏を行っていたといわれている。
念仏講は講員の家の葬儀には、通夜・出棺の際にも、また初七日、三七日、一周忌といった忌日にも、その家で念仏唱和を行い、葬儀の際の連絡・墓の穴堀り、野辺送りの行列の中の棺や飾り物の搬送役も相互扶助といった形で引受けていた。念仏の習俗の中に、十日十夜(じゅうにちじゅうや)念仏を唱えて極楽往生を願う「お十夜」の習俗がある。始め天台宗の行事として行われていたが、のち浄土宗の寺でも行われるようになった。「お十夜」は十月六日から十六日までの十夜行われるもので、南品川願行寺(浄土宗)で行われるものが有名で、大勢の参詣者があったが、そのほか戸越の行慶寺(浄土宗)、上大崎の徳蔵寺(天台宗)、下蛇窪の東光寺(天台宗)などでも行われた。
双盤(そうばん)と呼ぶ直径三~四〇センチメートルの鉦四箇と太鼓一箇を楽器として、これを本堂の外陣に置き、その前で独特の節廻しで「南無阿弥陀仏」を唱えるもので、この双盤念仏には美声の師匠がいて、これを指導していた。
「お十夜」ものちには短縮され、願行寺は十月十二・十三・十四日に、行慶寺は十月十七日に行っていた。