富士講

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 富士山を神として崇め、これに登山することによって心身を潔め、山頂で神に接するという信仰は、江戸時代に富士講を成立させ、江戸中期に入って食行身禄(じきぎょうみろく)(俗名伊藤伊兵衛)の登場によって、講の組織が拡大され、江戸八百八講と呼ばれる程多数の講が、江戸市中や近郊の村むらに結成された。

 これらの多数の講は身禄の弟子から弟子へと、つぎつぎに拡大されていったもので、各講それぞれ講名と講紋を掲げ、枝講(えだこう)を派生させた講は元講となり、信仰面のリーダーである先達と運営面の責任者である講元そしてこれをたすける複数の世話人によって運営されていた。

 品川宿には食行身禄の娘一行(いちぎょう)お花の教えを受けた赤坂の近江屋嘉右衛門を講祖とする丸嘉講があり、明治初年には講員三〇〇人と称し、明治二年(一八六九)には品川神社境内に富士塚を築造している。

 品川宿にこのほか〓元講(やませいもとこう)があり、大井村の鮫州にも〓御林講(やませいおはやしこう)があって、漁民が講員の主体になっていた。

 農村部では大崎地区に居木橋村に〓居木講(やませいいるぎこう)があり、荏原地区では小山村に〓講(やませいこう)、蛇窪村に〓元講(ほんいちもとこう)があった。

 これらの富士講は毎年七月一日の山開きが過ぎると、それぞれきめられた日に登山に出発した。


第67図 富士講の出発風景

 富士講の人びとの登山コースは、ゆきは甲州街道ときまっており、殆んどの講が高尾山に立寄って参詣していた。大月から富士吉田に入り、吉田の御師宅に泊って、翌日早暁、強力(ごうりき)を供に吉田口から登山した。この日は頂上近くで泊り、次の日の早暁頂上で御来光を拝し下山した。

 下山は須走口に出、ここから関本に出て大雄山の道了尊に参詣し、ついで大山の石尊大権現、江之島の弁財天などに参詣して、帰ってくるのが通例となっていた。

 身禄の遺した講話や和歌が記述され、あるいは口伝されたものが、お伝(つた)えと呼ばれ、富士講ではこれを経典とし、お伝えを読誦して仙元大菩薩を拝する儀式を拝みと称し、各講では、毎月の拝み・冬至拝みなど、毎月あるいは冬至などに講員が各家を交互に宿にして宿に集まって、拝みを行った。拝みをしながら線香の護摩を焚く行事を、お焚き上げといい、これも年に何回か宿で行われていた。