相模国の中央に聳える大山は、山頂に石尊大権現が祀られ、中腹に修験道の寺大山寺があって、降雨の神として庶民の尊崇を受けていたが、江戸時代に入ると大山講が各地に結成されて団体による登山が行われ、山麓に宿坊ができて、宿坊の経営者御師(おし)が講中の宿泊・参拝の斡旋などを行うようになった(明治以降、神仏分離で石尊大権現は、阿夫利神社に御師は先導師となった)。
品川区内にも各地区に大山講が組織されていた。品川宿では歩行新宿の御神酒講(おみきこう)(現在の北新御神酒講)、北品川本宿の大山講・北浜の大山講・北馬場の御神酒講(以上三講が合併して現在の北二大山講となった)、そして南品川には宮本講・品川大太刀講・明睦講などがあり、毎年六月二十八日より七月七日までの参詣を初山、七月十四日から十七日までの参詣を盆山といい、この時期に講員の中から有志を募って参詣登山を行っていた。
登山のコースには東海道を南下して平塚宿から伊勢原を通って大山に至るものと、池上道や中原街道を通って多摩川に至り、川沿いの道を北上して溝ノ口に出て、厚木大山街道(現在の国道二四六号線)を通って、伊勢原に出、ここから大山にゆくものなどがあった。
講員は白装束で腰に振鈴を下げ、ミキワクと呼ばれる木製の厨子を一対、天秤棒の両端につけ、講員がこれを担いで登山した。ミキワクの中には御神酒徳利を一本づつ納め、参詣の際受けた御神酒をこの中に入れて帰ってきた。御神酒は登山しなかった講員に分与した。
帰宅の日は家族や登山しない講員は夕方ホオヅキ提燈を持って東海道の鮫洲や浜川に迎えに出たが、帰りは江ノ島や鎌倉などを見物してくるのが各講の慣例になっていた。