ペリー来航と台場築造

162 ~ 163

 ペリー来航ほど、江戸市民に恐怖をもたらしたものはない。嘉永六年(一八五三)六月、ペリーは艦隊四艘を率いて浦賀にやってきた。勿論捕鯨船や中国との貿易の中継寄港地を求め、開港させる目的で来航したのである。

 しかし、浦賀での交渉で、幕府側が一年の準備期間を強調したため、ペリーは来春再来をつげて引上げた。

 この時の幕府首脳や江戸市民のあわて方は大変なものであったが、何とか防禦策をと、ねったあげくが品川の台場(砲台)築造ということになった。

 昼間は、高輪大木戸から品川まで交通どめの状態で、昼夜兼行の突貫工事がはじまった。白金の台地や御殿山の土をほりくずしたりして基礎工事に運び、材木は関東から、石材は伊豆や真鶴から運び、近郷近在の農民の大量動員を計画、各村割り充ての徴発、国防献金など、全く大騒動だった。こうした総動員態勢はまたたくうちに品川の海中に台場を築造していった。


第68図 台場築造風景

 第一・二・三の三基は、翌、安政元年四月に、第五・六と品川猟師町砲台は、十一月に竣工した。しかし工事のうちに日米和親条約が締結され、第四台場は七分通り、第七は海中の埋立だけ、第八番台場以下は未着手に終った。ともかく、この品川台場が戦争に使われずに済んだことは、江戸のためにも日本のためにも幸(しあわ)せだった。


第69図 第三台場内部の風景(大正7年)

 こうした中で、安政二年には大地震、安政五年にはコレラの流行と、江戸市民は大きな災難に見舞われたが、品川一帯は騒ぎの割には被害はごく少なかったといえる。