桜田門事件と外交問題の展開

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 しかし、ハリスが江戸に出て来て、日米通商条約が結ばれると、尊皇攘夷論が反対派からあがり、責任者井伊大老の立場は苦しくなった。勅許問題がこぢれて独断調印ということから、安政大獄の弾圧が行われ、幕府をせめる声も強くなった。この時、万延元年(一八六〇)三月三日、桜田門事件が大雪の中で起った。水戸の浪士達の襲撃で、いわば一国の首相ともいうべき井伊大老が白昼暗殺されたのである。

 この決行の夜、浪士達は北品川の土蔵相模にとまり、早朝、愛宕山(あたごやま)に集結、桜田門の襲撃になったという。薩摩藩の有村が大老の首をもって逃げたが、逃げきれず、切腹した話は有名である。

 こうして、攘夷の声が強くなる一方で、公使館が麻布から芝高輪辺に設けられたが、神奈川(横浜)との往来が繁くなるにつれ、外人とのトラブルもおき、東禅寺(港区)の英国公使館襲撃事件などのあと、文久二年(一八六二)八月いわゆる生麦事件が起った。英国人が島津久光の行列をつっきったことから薩摩藩の者が英国人一人を殺したため、英国の憤慨となり、犯人引渡し要求に応じなかったことから、遂に文久三年二月、十二艘の大艦隊が横浜に入港碇泊して、長文の要求書をつきつけた。

 これが江戸市中に知れ渡ると大騒ぎになり、品川宿から横浜方面は蜂の巣をつついたようになり、江戸の市民は、中山道を通って疎開をはじめるといった騒然たる状況だった。

 品川宿を中心とした村々の不安はひとかたではなかったというが、一応、幕府が償金を英国側に支払うことで、事なきを得て、市民をホッとさせた。