御殿山焼打ち

164 ~ 165

 各国の外交攻勢をかわすため、老中安藤信睦が考えたのは、英・米・仏の御気嫌をとるため、桜の名所として市民に親しまれていた品川御殿山の景勝の地に公使館を建てることだった。しかし、米国はこれを拒否し、英仏のみが応じて、まず英国公使館から建てはじめた。文久元年十二月には、英国公使館は完成に近づき、仏国公使館は工事中という情勢の時、これを見た長州藩の人々、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、井上馨などの志士達が、荘麗な建物の英国公使館を焼打ちしようと計画した。十二月十二日品川の土蔵相模に集った志士達は夜、御殿山に赴き、まだ建物が出来て留守番ばかりの英国公使館を焼き討ちしてしまった。

 半鐘はなる、高輪・品川などから消防がかけつけるなど大騒ぎだった。このため仏国公使館も建つことなく、そのまま中止になってしまったが、江戸市民はむしろ、久坂、高杉らのこの行動に拍手し、御殿山の桜をきった報いなどと悪口するものさえあったという。

 この事件は幕府首脳を警愕させたが、やがて外交を中心に、横浜貿易盛況による物価騰貴、江戸市民の生活はますます苦しくなっていった。