慶応二年(一八六六)五月二十八日、この日こそ、江戸市中大うちこわしの第一歩が、品川宿からはじまり、幕府崩壊への幕あきとなった記念すべき日である。
横浜商いによって、物価は急騰し、ことに米価の急上昇は市民生活を不安におとし入れていった。米だけでみても、安政六年一両に五斗六升一合だったのが、文久三年には四斗四升三合、慶応元年には二斗六升六合八勺、二年には遂に、一斗五升七合八勺という高騰ぶりだった。この外物価は一・五倍から三倍以上といった上昇で、幕府も再三物価引下げ令を出したが、とても禁令などで物価が容易に下がるものではなかった。
「長州征伐」の軍がおこされ、参勤交代の一時停止などが逆効果で、大騒ぎするうちに、こうした一方で市民生活を圧迫する物価高になったのだから、江戸でも、市民の不満はつのり、このゆきずまりから、一部には政権の変転をさえ予想するものがあったほどである。
そのうち、慶応二年五月、米が百文に一合五勺となった。長州幕府の戦端が開かれようとしていた二十八日の夜、南品川の御獄稲荷に集った窮民達が、大挙して押し出し、質屋米屋など富商のうちを襲撃して打ちこわしを行った。これがきっかけで、南北品川宿中をあばれ回り、土蔵相模なども大きな被害をうけた。さらに打ちこわしは翌二十九日芝に及び、田町辺から金杉へかけて押し出し、六月に入ってからは江戸市中至るところをおしまくって、打ちこわしを行った。幕府も米を放出して、御救い小屋などで市民の救済に当り、漸く一時鎮定したが、七月からまた米があがり出し、九月には白米百文に付一合一勺となったため、十八日、本所深川で再び打ちこわしがはじまり、組織された群集が、江戸市中をつぎつぎと打こわしを行って暴れ回った。幕府もすててはおけず、九月二十一日から市中五ヵ所で炊出しを行い救済に当ったが、救い小屋に入った市民は、なかなか出ようとせず、幕府当事者を困惑させた程であった。
これで一応、市民の暴動は、おさまったものの、既に幕府の衰退は明らかだった。市民は特に貿易による物価騰貴を意識し、貿易商の店が目の敵(かたき)にされたが、町奉行所としても処置なしで、市民のあばれるにまかしていたという。
「御政道売り切れ申候」という張紙が町奉行所前に、はられたという話が残っている。「方今日本の政情まさに一変せんとするとき」と外国新聞の報じたのも、もっともである。