薩摩藩長州藩、朝廷側と英国、幕府とフランスといった結びつきが、いっそう国内情勢を険悪にしていったが、慶応三年十月、土佐の山内容堂や家臣後藤象次郎らの提唱した大政奉還説に将軍慶喜も動かされ、十月十四日、二六〇年にわたる幕府支配に終止符をうち大政を奉還し将軍職を辞するに至った。
こうして十二月九日天皇親政の詔は下り、王政復古の大号令が発せられ、世は維新をむかえた。
江戸においては、西郷らが江戸市中攪乱(かくらん)策をとり、ことに薩摩藩の益満休之助を中心に、相楽総三などのあばれ者の浪士を使って、富豪の家などへ押しいって軍用金といって金をもっていったり、強盗に等しいことまでやるものもあって、市中は戦々兢々(きょうきょう)たる有様であった。
その上、前将軍夫人島津の娘天璋院の住む江戸城二の丸が、十二月二十三日焼失するという怪火事件まで起る状況だった。