三田薩摩屋敷焼打ちと品川沖海戦

167 ~ 168

 慶応三年の十二月、江戸の各所に歳の市がたって、新年も間近という時、愛宕山の歳の市の前日の二十五日、挑発にのらぬよう我慢に我慢していた幕府側も遂に薩摩藩邸攻撃を決意、佐竹藩などに命じて、三田(港区)の薩摩屋敷の浪士達討伐を名目に、これを包囲し、品川方面のみ一方の口(くち)をあけて攻撃、砲火をあびせて遂に薩摩屋敷を焼払い、浪人達を捕えたり殺したりした。品川方面があいているので逃げ出した浪士たちは、相楽総二をはじめ、手に炬火(たいまつ)をもち、抜刀して逃げ、途中の町々に火をつけて焼き、品川沖に碇泊している薩摩藩の軍艦翔鳳(しょうほう)丸に乗ろうと品川宿へと逃げてきた。北品川宿へ火をつけようとすると、浪士の一人が、「ここには俺の好きな女郎がいる。焼くのはよせ」とどなったので、北品川宿は焼かず、南品川宿は根こそぎ放火され焼亡した。

 鮫洲(さめず)まで逃げた浪士達は、三隻の舟で翔鳳丸に近づこうとしたが、品川沖にいた幕府の軍艦回天丸にみつかり、故障修理中の咸臨丸と共に砲火をあびせ、打ちあいとなり、相楽総三らの乗った一隻だけが翔鳳丸にのれただけで、あとの船は羽田へつき散々な目にあった。相楽らは、何とか夜の暗やみに助けられて兵庫におちのびることが出来た。

 この事件で、品川にとって一番の客であった薩摩屋敷の人々によって焼かれたのも皮肉だが、南品川宿が壊滅したことは、大きな打撃だった。

 この事件のすぐあとに、京都では慶応四年正月三日、鳥羽伏見の戦いが始まり、幕府側の敗戦を迎える。