明治維新後、一番大きな変化の波をうけたのは品川宿だった。周辺村々はまだ全くの農村か漁村で、品川宿だけが、東海道の江戸からの初駅として、華やかな町であり、南品川宿は三田薩摩屋敷焼打ちの余波で焼失、復興に手間どっているうちに、この大変化に見舞われただけに、打撃は深刻だった。
参勤交代がなくなっても、東京と関西を結ぶ交通は頻繁で、維新政府としても、しばらくは旧慣尊長で急激な変化はなるべくさけたが、明治四年十一月、陸運会社が新しい組織で、交通運輸の事業を開始する計画が出来、これを機に五年正月、東海伝馬所の廃止を布告、更に七月には助郷その他伝馬関係一切の課役を廃止した。近郷近在村々の喜びは大変なものだったといえる。
そのうえ、明治三年三月には二番台場に品川燈台が設けられ、船の出入りには大きな福音をもたらし、少しずつ品川は文明開化の影響をうけて変貌していった。