維新政府としては貿易を重視せざるを得なかったが、横浜と築地を結ぶ船が頼りではどうにもならず、東京・横浜間に鉄道敷設が急務であった。
三年から鉄道敷設のための土地買収や測量にかかったが、まず品川宿の人々の宿場内に駅を設置することへの反対運動が大きな障害になった。芝浦金杉方面の漁師達も猛反対、海軍も反対の意を示すなど難問が多かったが、品川駅は宿場はずれの高輪に設け、品川駅から先は海中に土手を築いてその上を汽車が走るということでおちついた。五年五月七日、品川・横浜間にはじめて汽車が走り、六月には川崎・神奈川の駅も途中に開設された。東京・品川間が工事で遅れ、新橋・横浜間が開通したのは、五年九月十二日のことである。新橋駅といっても今の汐留駅で、これは、築地居留地や浜離宮内に延遼館という迎賓館のあった関係で、この地が選ばれたといわれている。