鉄道が開通すると関西から東京へとやってくる人の大部分が横浜で汽車にのり、直接東京へ来てしまう。品川宿は新橋まで開通しないうちは大賑いだったが、新橋駅ができると完全な通過駅になって、品川宿はとり残された存在になり、次第に衰微の様相をみせはじめた。
この時、横浜にマリア=ルズ号事件がおきて、品川宿の衰退に追いうちをかけた。事件は横浜港内にいたペルーの船マリア=ルズ号が多くの清国人を奴隷として二三〇名も乗せていることがわかり、これを大江卓神奈川県権令が全員を釈放させたことから、国際裁判となり、ペルー側は日本にも奴隷がある。吉原や四宿の遊女達は奴隷だと娼妓の身売りのことを指摘した。そこで、上から突然五年の十月二日娼妓の解放が布告された。江藤司法卿は、遊女の借金が身売りと全く同じなら、裁判に不利であるとして、娼妓の借金を全部帳消しにしてしまった。吉原根津の遊廓をはじめ、四宿は大変な騒ぎであった。
この騒ぎは品川宿を一層衰微させてしまったが、市民の遊び場として遊女屋六八軒・遊女六二九人、芸妓八人の品川宿は、何とか立直る途をさぐり、政府側も逆に遊女たちまで困窮するようになったため、解放令の取締りをゆるめ、六年の十二月には、新らたに貸座敷渡世規則と娼芸妓規則が出て、娼妓渡世希望の者に鑑札を渡し、今までの樓主は座敷を貸して客と遊ばせるという形をとって、やっと息をふきかえした。品川宿およびこれに頼って生活する周辺村民は、蘇生の思いで、これにより再び品川は繁栄をとり戻していったといえる。