品川が宿駅としての発展をとめた時、新しく品川を興隆させる機運をもたらしたのは工業の発展である。
目黒川というものが工業の発達に大きな役割りを演ずることになった。
まず品川ガラス工場が、政府の試験的官営工場として明治六年に設けられた。場所は今の三共製薬の工場のある東海寺裏手で、三条実美の援助で機械器具から粘土、耐火煉瓦までイギリスから輸入したという。技師としてトーマス=ウオルトンを英国から招き、職工にはギャマン職人を募集したが、製造ということになると、板ガラスを作るのには何としてもギヤマン職人では無理で、十年から紅色ガスラの製作をはじめたが、この年品川硝子製造所は工部省の品川工作分局と改称した。十二年六月には英国製耐火煉瓦を使ってフリント窯を改造した新しい窯を設け、別に化学実験所を新設している。本来の板硝子製造に着手したのは十四年二月からで、成功したとはいえず、十五年一時中止し、十六年に再開したが、まもなく廃止された。
しかし、十六年九月には再び品川硝子製造所と改め、十八年五月には西村勝三等に払いさげられ、民間の事業となった。
この時、職工たちの中には残留しない者もあり、東京市内に散在するもの、大阪へ移る者があって、日本のガラス製造が各地で行われるようになってゆくのである。
品川白煉瓦製造所は、この品川硝子と関係がある。その窯の構築には耐火煉瓦が必要であったから、耐火煉瓦の製造が行われなければならなかった。西村勝三が仏人ペルグランの指導により芝浦に耐火煉瓦製造を開始したのは明治八年のことだったが、明治十六年白煉瓦工場を工作分局より払下げをうけ、伊勢勝白煉瓦製造所を設立、明治二十年には品川硝子製造所の隣接地域に、深川工場を移転し、品川白煉瓦工場と改称した。
明治の二十年代までに、目黒川流域に、この二つの製造所があって東京の初期の工業界に大きな役割を果したことが(たとえ品川県時代のビール製造業が、よくわからないにせよ、)品川一帯の工業地区としての発展の先駆をなしたことは記憶さるべきことといえる。
この両工場とも西村勝三が中心になって動いている。靴の方で有名な西村勝三が、明治初期の品川の工業の発展につくした功績は記憶さるべきことであろう。彼の墓が東海寺の墓地内、沢庵の墓近くに、大きくたっているのも、こうした縁からである。
品川工業地帯の発展の種はまかれ、すくすくとのびていった。目黒川流域を中心とする多くの工場が、神田川流域の工場の発展と相俟って、東京における大きな工業地帯の二つの線となって発展していった。その主たるものが製薬工業であった点も軌を一にしているといえる。
三共製薬が品川硝子会社の跡を買収し、その品川工場を設けたのは明治四十一年一月のことであるが、一方、下大崎には星製薬が進出、芝山内から三田小山町(いづれも港区)、下大崎と転じて、ここに根をおろした。株式会社として出発したのは明治四十四年のことで、同年五月の売上高は、一ヵ月五、九〇〇円にも達したというが、従業員は男工九名、女工五〇名だったという。
また日本ペイントが南品川に工場を移したのは明治二十九年のことで、光明合資会社と称し、日本ペイント製造会社となったのは、明治三十年十月のことで、当時職工は約七〇名であったという(日本ペイントとなるのは昭和二年になってである。)。
日清日露の両戦役が、日本の工業界躍新発展の原動力といってよい。区内の多くの大工業会社も、これをきっかけにのびていったといえる。藤倉電線の前身藤倉合名会社防水布製造所が上大崎に移転してきたのは、明治四十三年のこと、これと関連をもつ明治護謨製造所が北品川の東海寺のほとりに工場を移したのは明治三十五年であった。
大崎の名物のような明電舎が、大崎駅近くに築地(中央区)より移転してきたのは明治四十五年二月のことで、人影もない田畑の中に、目黒川を利用して桐ケ谷より土を運び、工場を建てたのだという。