明治維新となっても、品川宿が江戸から第一番目の宿駅として、大きな変化の波をかぶっただけで、周辺の村々は全くの農村の姿であったといえる。
ただ、前述の通り、助郷の廃止は、これに悩まされつづけた品川宿以外の区内村々の人々をどんなに喜ばせたか知れぬ。
品川県時代、備荒貯蓄の社倉に関連して騒動のもち上ったことは前述した。いわゆる門訴事件だが、明治八年以降、この貯穀は各村々へ返還されたが、これが公立小学校設立のもとの資金になった。農民の苦しんだ強制貯穀が、小学校建設に使われた事は、ある意味ではよかったといえる。
廃藩置県後の大区小区時代、地租改正という大きな嵐が吹きまくったが、旧貢租と改正後を比較してみると租税額は共通して増大しているといえる。
明治十年代の後半になると、政府は米をはじめ、多収穫のためには日本古来の秘法的な技術を公開して、技術指導によって効果をあげようとした。そこに船津伝次平のような「老農」とよばれるものが全国を巡回して指導の任務を果す人々が出たが、十二年郡区町村編制法により、十五区六郡中荏原郡に属した郡内村々でも、こうした老農たちの経験談より出た研究を実らせるため、幾箇所かで、集りをもって座談会を開いた。荏原郡では主として品川の玄性院で開催され、明治農業の発展にかなりの利益をもたらしたといえる。
しかし、農村地帯としての品川周辺一帯に一番大きな影響を与えたのは、明治五年十二月三日をもって、明治六年一月元旦とした新暦の採用である。あらゆる農作業、農村行事が旧暦によっていただけに、その新暦のもたらした影響は、とまどい、反感、不満と明治年間を通じて荒れ回った。しかし、後遺症は大正まで残ったとはいえ、農村も新暦を次第に消化していったといえる。
農業で見逃すことのできないのは品川用水の問題である。品川用水が水田耕作の上で、区内村々に大きな貢献をしたことはいうまでもないが、一方工業の発展につれて、動力としての水車の利用が盛んになり、用水組合へ多くの金が支払われたとはいえ、本来の農業用水を利用する側からみれば、大きな矛盾で、そこに問題があった。しかも風水害などによる流水とか土砂流出はいろいろの影響を村々に与えた。明治二十五年から二十六年に至る「上蛇窪分水口」事件はその代表的なものだったといえる。