漁業の衰微と海苔の繁栄

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 品川の漁業について一言ふれる。品川漁業は幕末のお台場構築により地引網などが使用不可能な状況になった上、船舶の頻繁な往来、それに新たに目黒川流域を中心に勃興した工業等により、急速な変化は示さなかったとはいえ、回遊漁類の減少の上、東京府の佃島漁業保護のため白魚漁場免許の特典を与えたこと等により、十年代にはかなりの打撃をうけ、二十年代には漁業をあきらめ転業するものも出る状況だった。こうした衰退への傾向とは反対に、海苔養殖がこれを補ってあまりある発展と繁栄があった。

 明治維新後、新しい「官員さん」達によってしめられた東京に於て、その食卓にのる海苔の賞美されたことは、一種の海苔ブームを生じた。維新後あらたに東征軍から特権を得て海苔ひび場を獲得した村があったが、品川もこれにならい、ひび場獲得運動に成功、品川猟師町は、五番砲台場下に一万五〇〇〇坪のひび場を許可された。その結果猟師町の海苔ひび場は四万坪に近く、南品川宿の分五万五千坪とあわせると八万七千坪に達し、更に次第にひび場の交換確保に努力していった。

 藩閥政府要人がこれを、そのままにしておかなかった。薩藩の蒲地(かまち)清美(名儀では芝愛宕町寄留)が同藩出の府知事高崎五六に運動、単独で、漁業と無縁でいながら明治二十年に至って二〇万余坪を一番砲台から六番砲台北までの間に海苔ひび場を獲得許可をうけて養殖場にした。品川猟師たちの驚きは大変なもので、東京湾漁業組合を動かし沿岸漁民の生活を優先さすべきだと陣情これつとめた。二十年五月許可された蒲地の養殖場をめぐり、三か月にわたって各浦の糾弾がつづいたため、府当局もついに取消さざるを得なくなり、二十年八月八万坪は返納、残り八万三千坪の海苔ひび場は、南品川宿・猟師町・大井村、大森村・羽田村五か村に譲渡され、大井村南・品川宿・同猟師町は、各自一万六六〇〇坪を使用することになって、一件落着した。これがいわゆる「蒲地騒動」であった。

 海苔養殖による品川漁民の収入は、こうした繁栄期において、彼等の一般漁業不振を補って余りある程であった。

 しかし、海苔はやはり生産額において大森が品川より上位にあった。明治三十年代には品川湾の海苔の付着が悪化し、他の地に種付けをして移殖することが多くなり、東京市の港湾改良事業の影響で埋立や汚染のため海苔の養殖が急速に衰退してゆくのであった。

 ただ、明治二十年代における品川の漁業について、品川砲台を中心に、府の指導もあって、牡蠣(かき)の養殖が盛んに試みられたが、成功を見ずに次第に廃止されてしまったことは、記憶さるべきことであろう。