明治十年代における東京市内の人力車の増加は夥(おびただ)しいものがあり、勢い品川宿においては、多くの人が人力車を利用したから、南北品川宿においては、さながら文明開化の見本は人力車の観があった。江戸時代以来品川宿の名物だった駕籠(かご)は全く人力車にとってかわられてしまった。
そこへ明治十八年三月、日本鉄道会社の赤羽・品川間山手線開通により、官設の新橋・品川間との連絡が出来、新宿方面の人も新橋へ、たやすく列車によって来ることができるようになった。品川はこのため、横浜を目ざす山手線の客の乗りかえ駅となり、新橋から山手廻りで赤羽へ達した。しかし間もなく、区内に目黒駅が出来、区民の交通機関利用は一段と便利になった。
一方東京市内においては、乗合馬車が初年市民の好評を博したが、明治十二年軌道式の交通機関として利用され、鉄道馬車が出現した。人力車に頼っていた市民の熱狂的歓迎をうけて、大繁昌だった。鉄道馬車が、十五年、新橋―上野―浅草―新橋と一応完成をみるにつけ、二十二年、品川でも品川馬車会社ができて、翌年から無軌道式で品川から新橋・上野・浅草、それに品川・大森・川崎・大師河原間に「改良乗合馬車」と名乗って営業を開始した。しかし評判悪く鉄道馬車に到底人気が及ばないため、三十年には軌道式に改めて、一両十八人乗りで、評判をとり戻したが、三十二年六月馬車鉄と合併、市電の前身三電時代まで、市内交通の重要機関だった。
また日清戦争が勃発すると、軍隊の大量輸送が必要となり、品川と目黒の間の大崎から分れて大井に至る一・四キロの路線が軍用として二十七年八月完成、品川西南線とよばれ、いろいろな面で区内に影響を与えた。
俗に院線といわれた省電(今の国電)が品川区内の人々の便利になるのは大正に入ってのことで、大正三年に中央駅たる東京駅の完成が大きな影響を与えたといってよい。
大井工場は区内交通及工業方面に特別の関連をもつものだが、新橋工場より移転したはじめは大正二年のことであった。
地方電鉄としては明治三十一年三月大師電気鉄道会社が設立され、三十二年京浜電鉄と改称された。この年川崎・目黒川間、こえて三十七年五月には目黒川・八ツ山間が開通している。これが今の京浜急行電鉄のはじめといえる。