工場の創設とそのパターン

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 現在の品川区地域で大正七年に工場二〇一を数えたが、その半数近くが第一次大戦下の創業であった。大戦による好況、工業ブームの結果であることはいうまでもない。総工場数のうち、業種では機械・金属・化学などが七〇%以上を占め、それは日本経済の重化学工業化の芽ばえを示していた。従業員規模では、一〇〇人以上が一一%、五〇人以下が七七%を占めている。この統計では五人未満のものを除いているから、仮に五〇人未満を当時の中小企業だとすれば、品川区の工場のかなりの部分は中小企業だった。

 これらの工場がこの時期に品川に創業されたのには、それぞれ独自の歴史的経緯があった。いま、これらを概括的に示せば、次のようなパターンがあげられよう。

 第一に指摘できるのは、この地域に工場が創立された例である。日本精工・日本酸素・東洋酸素の各工場がそのパターンに属する。そのうち日本酸素の工場は、大崎町大字桐ケ谷字谷戸窪四九九番地に建てられ、現在そこには「日本酸素記念館」がある。わが国最初の酸素製造工場跡である。


第80図 わが国最初の酸素製造工場跡(日本酸素記念館)

 次に、この地域に工場を移転してきた例として、明治二十年に深川から移転してきた品川白煉瓦や明電舎・荏原製作所・真崎市川鉛筆などがあげられる。

 明電舎は、京橋明石町で操業していたが、事業拡張のため、大正二年五月、大崎の近くに敷地約六、〇〇〇坪の新工場を建設したものである。

 また、ポンプなど水力機械の設計事務所にすぎなかった「ゐのくち式機械事務所」は第一次大戦の中で大正三年、自家工場を日暮里に設けた後、大正九年、西品川に八、〇〇〇坪の近代的な本格的ポンプ専門工場を建設した。同時に社名も所在地に因んで株式会社荏原製作所と改めて、建坪三五〇坪の工場、従業員四六名で発足した。

 真崎市川鉛筆(明治四十一年創業、現在の三菱鉛筆の前身)は、四谷区から大正五年に大井町の後藤毛織工場の土地・建物を買取り移転してきている。

 また、藤倉合名会社は第一次大戦の勃発にともなう軍からの要請、需要の増大に応ずるため、工場の拡張を求めて大崎町大字谷山五番地に大正六年、移転した。七年に敷地内に航空機材料研究所と気球工場を増設、同時に大正五年には海軍式飛行機塔乗者用落下傘の研究に着手し、昭和四年に正式採用された(陸軍からも昭和五年以降受注)。

 移転でもあり同時に、工場の〝のれん〟(営業権)をゆずり受けたのが、明治三十三年、北品川東海寺畔にできた明治護謨製造所も、当時医療器具商として名をはせた「いわしや」の松下儀兵衛の東京護謨製造を米井源次郎商店がひきつぎ品川に工場を建設したもので、翌年、日本最初のゴム製品の政府の指定工場になった。

 これらは、いずれも移転によって規模を拡大し内容も近代化し、品川で本格的な工場になったともいえる。

 

 さらに、他地域に工場をもちながら、品川に第二の工場を併設した例も多い。東京電気・森永製菓などが、それである。芝三田四国町に工場をもっていた東京電気は、明治四十四年暮に大井町字関ケ原一三〇二番地の元後藤毛織工場を借受けた。翌四十五年二月、同工場でタングステン電球製造を開始した。当時としては一大電球工場となった。第一次大戦当りから欧米諸国から豆電球・クリスマスツリー用の電球の注文が殺到したが、これが品川区域はじめ城南地区のクリスマス電球産業発展の端緒にもなったのである。

 森永製菓も品川に第二工場を建設した。大崎町の居木橋をさらに遡ると森永橋にでるが、これは森永工場に因んでつけられたものである。東京ではなくて関西の企業が、品川に工場を設立した例もあった。それは関西製織界の重鎮である日本毛織株式会社が、大正元年九月、東京製織大井工場を買いとり設立した日本毛織東京工場である。やがて大正六年六月、東京製織は東京毛織物・東洋毛織(前身後藤毛織)と合併、東京毛織会社となった。当工場の従業員は二、九四五名で、品川区域内で当時最大規模のものであった(大正七年)。


第81図 森永橋付近(昭和54年)

 他産業と同様に欧州の戦乱による商品・資材の輸入杜絶と物価高騰(たとえば重曹などは四~五倍)は、日本ペイント・三共製薬・星製薬など化学・製薬業にとっても発展の好条件となった。すでに国内市場から外国製品を駆逐しつつあった日本ペイントの塗料製品は、ここに完全に国内市場を制覇するに至った。だが、その原料である亜鉛華については日本ペイントの国内独占時代は終り、新しい競争相手がでてきたものの日本ペイントの製品は、中国・イギリスにも輸出される一方、隣国の中国までも塗工部などを建設するようになった。大正七年前後の黄金時代には株式に四割を配当する営業成績をあげたほどだった。ところが、ひとたび戦争が終ると価格下落・国内需要の停滞・為替相場の不利による輸出不振などの悪条件が重なり福島・埼玉・海外工場も廃止のやむなきに至った。ただ関東大震災の被害をそれほどうけなかったこと、帝都復興事業による一定の需要が生じたため、品川工場は経営を維持することができた。日本ペイントのこうした動向は大正期品川地域工業の一つの典型といえるかもしれない。