関東大震災後の工業の歩み

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 関東大震災は、第一次大戦のブームが過ぎ去り、不況に喘いでいた工業に、さらに追い打ちをかける打撃となった。たとえば、京浜工業地帯全体(東京府・神奈川県)では第一次大戦直後の好況期の約三分の一にまで減少し、これが復興するまでに約五年の歳月を要したといわれている(隅谷三喜男編著『京浜工業地帯』)。

 品川区地域内の工業も戦後反動恐慌の上に震災恐慌の影響をこうむったと同時に、当時の日本経済全体が恐慌から恐慌へとよろめきながらも、長期趨勢的には高度成長を遂げたという歴史的現実の例外ではなかった。むしろ、この地域は、京浜工場地帯の中でも新興の機械金属や化学などを中心とする地域としての発展をとげていった。いくつかの代表的な工場をあげてみると、東京電気は一方で、芝浦製作所製の「電気扇」や電気時計やG=E社製の家庭用電気機械器具の販売で実績をあげると同時に、他方では大井工場ほかの電球生産の拡充によって、電球国産化に寄与した。

 第一次大戦による好況と戦後の反動恐慌以降の不況をこうむりながらも、独自の発展を遂げたのが、化学関係の工場であった。この例に属するのは、大正二年創立された三共製薬・星製薬である。品川工場でタカジァスターゼの国産化、鈴木梅太郎の指導で清酒防腐剤サリチル酸の生産にも成功をおさめた。また、高峰譲吉がアメリカ合衆国から持ち帰った自動車・オートバイ・人造肥料・アルミなどに関連して、三共は、さらに積極的に多角経営に進出し、たとえば、自動自転車では昭和九年に国産化に成功、「陸王号」と命名、販売された。

 星製薬も大正三年モルヒネ抽出、ワクチン製造にも成功した。とくに注目されるのは、全国の各町村に一つの特約店をおく計画をたて、その特約店の教育に意を注ぎ、大崎工場の近くに五〇〇名位収容できる六棟の校舎と講堂を建てた。これが現在の星薬科大学の濫觴となったのである。

 また、このころ業況の思わしくなかった園地製作所も、ガスメーターの製作に成功し、大阪・神戸・東京各ガスはじめ各ガス会社がこの注文が殺到するようになった。また、軍縮・震災・恐慌・争議と重なった日本光学は遂に大正十五年五月経営陣の交替・減資・人員整理を行うに至った。しかし、長岡半太郎・柴田雄次両博士を顧問として出発した大井工場内の光学硝子研究所は、政府の軍需工業研究奨励金の交付を得て、従来もっぱらドイツからの輸入に依存していた光学硝子の国産化のための技術開発に成功した。これを背景として、昭和三年ごろから陸海軍からの光学兵器の新規受註もふえ、ここにようやく危機を脱けだすことができた。昭和八年には新工場を建設、その前後からカメラの研究がようやく軌道にのり、レンズに「ニッコール」という名称がつけられたのである(昭和七年、『日本光学工業株式会社二十五年史』、『五十年の歩み』)。

 関東大震災で、大きな打撃をうけた工場もあった。例えば、先の日本光学は、大井本社はじめ反射鏡焼鈍炉・光学硝子焼解炉に亀裂を生じ大井本社は十七日間、東京支店は二十五日間の作業中止に追いこまれ、営業状態も不振となるなど、その結果大打撃をうけたのであった。

 そのほか地域内の軽工業の代表的存在といわれ、大井町発展の一つの原動力ともなった後藤恕作が大正七年十月創立した後藤毛織が昭和四年秋、遂に破綻した。その原因は関東大震災で工場が全滅したためである。また東京毛織大井工場も震災の打撃を直接うけなかったけれども同所の王子工場が懐滅したために社運傾き、前後して工場休止のやむなきに至った。

 昭和に入って三菱内燃機は昭和三年五月、大井町字森前五六〇〇番地に大井工場(日本光学より買った土地六、〇〇〇坪)を設立、芝浦工場と合わせて東京製作所とした。大井工場では陸軍近代化の重要な分野であった戦車の生産が行われた。昭和五年十一月に最初の試作車ができた。「イ号車」と呼ばれる民間第一号であった。昭和八年十二月、イ号戦車の量産に入った(三菱重工株式会社『東京製作所五十年史』)。

 品川白煉瓦も、また造船・鉄鋼業の発展にともなって耐火煉瓦の需要が増大した。だが、停戦・海軍軍縮によって深刻な不況に陥ったものの、建築用軽量煉瓦の専売特許の実現や舗道煉瓦の開発もあって、関東大震災後の復興需要に支えられて、経営を維持した。しかし、それには、非常な企業努力や合理化を前提としなければならなかった。その合理化の内容は、まず、生産費削減のために本社工場の一部を地方に移し、敷地の一部を三共製薬と、国鉄に売却、大正十五年には本社を品川町から麹町に移転、そしてこれらの合理化に因って起った労働争議で、昭和四年、品川工場をすべて川崎に移転する事態に陥ったのである。