大正十二年(一九二三)九月一日、この日朝早く東京の空は荒れ模様だったが、午前十時頃から晴れわたった。人びとが昼の食卓につこうとした午前十一時五十八分、突然、マグニチュード七・八~七・九の大地震が起った。震源地は東京の南一〇五キロメートル、伊豆七島の東方約一五キロメートルの海底、北緯三五・二度、東経一三九・三度だった。
被害は東京・横浜をはじめ関東一円の広範囲に及ぶと同時に、たまたま昼食時で煮たきに利用していたガスコンロの火などが原因で発生した火災によって家屋の密集した東京市内十五区の被害は、一層大きくなった。
被害は死者九万九三三一人、行方不明四万三四七六人、家屋全壊一二万八二六六戸、同半壊一二万六二三三戸、焼失四四万七一二八戸だった(東京天文台編纂『理科年表』)。
品川区域の被害状況は、都心にくらべれば幸にして火災をまぬがれたため、それほど大きくはなかった。それでも、品川町では、家屋全壊四五戸、半壊五〇二戸、破損一、七二七戸、土蔵・石蔵の全壊一六棟、同半壊一〇〇棟、同破損八一棟、死者などの被害者は、一、七八三人に及び、そのうち六人が圧死したと記録されている。大井町でも家屋全壊三八戸・半潰一一五戸、土蔵の全壊五棟・半壊二二棟・一部破損多数だった。同町の圧死者二〇人、傷死者五人、そのほか町民で、川崎・鎌倉・東京市内などで死亡したものが一四名いた。震災の状況を大井町役場編『大震災記念誌』はつぎのように伝えている。
震災当日の大井町
此の日町民の多くは昼餐の卓に就かんとする間際の第一震によりて建築の古きもの或は工事半ばの建造物は悉く倒壊され、煉瓦造及び煉瓦堀は大半崩壊し、死傷者数十名を出し、土煙四方に揚り助けて呉れの悲鳴随所に起り、是れと同時に電線電話電灯電車汽車水道瓦斯等総て文化の粋はこの自然の大暴力に一溜りもなく破壊せられ、世は全く原始時代に復帰したるが如く、加ふるに役場前より字土佐山に至る道路は所々に大亀裂を生し、断崖崩れ殊に土佐山は地盤の軟弱なる関係上家屋数棟倒壊し、続いて絶へ間なき余震と東京方面の大火に何れも不安と恐怖の念を生じて屋内に入る事能はず、一家挙とて学校運動場、社寺境内域は庭園又は空地、甚だしきに至つては波状を成したる線路内に野天生活の已むなきを見るりに至りたり。
火災は大井町・平塚村には全く起らなかった。ただ大崎町で陸軍衛生材料廠の薬品が倒れて自然発火し、周辺民家二六棟に延焼したのがもっとも大きな火災であったのと、品川町の三共製薬品川工場が半棟焼けただけに留まった。