品川区域の各町村がほとんど火災をまぬがれたのは、不幸中の幸だった。その結果品川区域から他の地域へ逃げだす必要がなかったし、東京市内・横浜・川崎方面の罹災者が、この地域へ流れこんできた。品川区地域の各町村の人々は役場を中心に罹災者の救助活動に奔走した。青年団・在郷軍人会・安全組合などが協力して、路傍に湯呑所を設けて、にぎりめし・飲料水の提供などの炊出しを行う一方、小学校・寺院・活動写真館、または富豪の邸宅を開放して避難民の収容につとめた。親戚・知人の家に身を寄せた人も含めて、もっとも多い時に大井町では三万人、大崎町二万五〇〇〇人もの避雑民がいたといわれた。品川町では吏員を茨城・埼玉・栃木の各県に派遣し、白米約四、〇〇〇俵を購入して食糧を確保したが、やがて政府・東京府あるいは全国からの救援物資も届くようになり、それとともに町内の工場・富豪・町民有志らも物資・資金の寄付につとめた。こうした救援活動は翌年一月まで続けられたのであった。