戒厳令下の品川

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 九月二日、震災・火災の不安と混乱の中から朝鮮人暴動の流言飛語が起った。この報告を受けて内務大臣水野錬太郎は戒厳令の施行を決意した。閣議によって同日午後六時、政府は戒厳令を東京市と荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡に実施した。翌三日に、これを東京府・神奈川県の全区域に拡大した。東京では近衛師団が東京北警備隊第一師団が東京南警備隊として配置された。品川・六郷方面は第一師団第三連隊の一中隊が派遣された。警視庁も四日、東海道線品川駅、大井の八ツ山下、大崎の五反田などに検問所を設けた。品川警察署管内の品川・大井には、二日の午後二時横浜から避難者によって、流言飛語が伝えられた(警視庁『大正大震火災誌』)。同署大崎分署管内の大崎・平塚にもほぼ同時刻、市谷刑務所の囚人が解放され、放火を計画しているなどの流言が乱れ飛んだ。こうした流言にまどわされ、不安に襲われた民衆は疑心晴鬼を生じ、牛乳・新聞の配達人・肥料汲取人などが、心覚えに路地に記した符号を朝鮮人が放火・殺人あるいは、毒薬の撒布をするための目標であると信じこむようにさえなった。夕刻には各町村民は、日本刀・とび口・木刀などをもって自警団が組織された。二日夕刻大井町の八ツ山下では、爆弾所持者であるとして一人の朝鮮人をとらえて重傷を負わせた。しかし調べてみると、爆弾とみられたものは、実は大和煮の缶詰と二びんのビールだった。同日四時半、大崎町桐ケ谷で星製薬の人夫である金容宅ら四名の朝鮮人が鳶口などで乱打されて重傷を負わされたし、平塚村蛇窪でも一人の朝鮮人が竹槍・天秤棒などで重傷をうけ、翌三日同じ地域でもう一人の朝鮮人が重傷を負わされた。品川町では朝鮮人と見誤られた町民の明治大学生の一人が竹槍・鳶口などで乱打され、日本刀で斬つけられて瀕死の重傷を負い、品海病院に送られたが結局死亡した。大井町・平塚村でも同様の事件がそれぞれ一件ずつ起り、一人は死亡、一人は重傷を負った。震災の中で警鐘が乱打され、大井町では警官さえ抜剣して指揮する異常な事態の中で起った事件であった。後日、政府その他の機関の調査によって朝鮮人の放火・暴行などの事実は、全く無かったことが明々白々となったのである。なぜこのような根も葉もない事実無根の流言が飛び、人心をとらえたのであろうか、一つの説は、権力が戒厳令布告の名分として流言を流布し、国民の不安を凶悪な排外心に導いたとする意見であり、もう一つの説は流言は自然に発生したもので、日本人の中に日清戦争前後以来培われてきた偏見と蔑視感にこそ流言の源があるというものである。


第84図 品川駅より無蓋車で避難する人たち

 こうして関東大震災は、人びとにとって地震に対する深い恐怖と、社会的不安・混乱・排外心の拡大と同時に知識人層における排外主義に対する反省などをもたらしたほかに、品川区域にとっては、急速な都市化・人口増大などの大きな変化をもたらしたのである。