品川の遊廓は明治五年形式の上で解放され貸座敷と名称を変えたものの実質はほとんど変化はなかった。しかし、関東大震災を境にして貸座敷の営業内容はかなりの変化がみられた。一つは震災後の異常な繁昌ぶりだった。東京で最大の吉原が震災で壊滅し、中心の弁天地はまるで女の生地獄ともいわれるほどの惨状を呈したのに、品川遊廓は多少震害はあったが倒壊・火災はなかった。しばらく「一般被害者の惨状に顧み、深く慎みて休業」したが、警察当局から一日も早く開業せよという注意をうけ、十月一日より再開した。だが当分は飲食物は一切出さない、時間制度にした「遊興味の薄い」ものだったにもかかわらず、客の殺到の有様はすさまじいばかりで、数カ月間は連夜満員客止めの盛況だった(『品川遊廓史考』。大正十三年度は客数五二万七〇〇〇余人もあり、その前後の三三~四万人の約一・六倍に達した。営業高も震災の年度が大正期のピークであった。
客一人当りの消費金額では、前年の四円八十五銭から三円三十八銭に減少した。これは娼妓一本化と客の経済的ゆとりがなくなったことのあらわれでもあった。貸座敷業は、飲食であげていた利益を、娼妓があげた営業高のなかの取り分を増加させる方法(明治三十三年娼妓四七・七%、貸座敷五二・三%だったものが、昭和七年には三三・一%と六六・九%へと変化した)で補うようにしたともいえよう。昭和七年の品川の貸座敷は四三軒、娼妓四〇七人、一軒当り九・六九人で、一軒当り年所得九万八八九五円二九銭五厘の計算になる。現在の物価に引き直すと、およそ一〇〇〇倍とみると、ほぼ一億円にも達する。他方、働き手である娼妓たちが稼いだ売上高(水揚げ)の中で、貸座敷と娼妓間の分配率は、明治三十三年貸座敷五二・三%娼妓四七・七%だったものが、昭和七年には貸座敷六六・九%、娼妓三三・一%へと変わった。もし搾取率という尺度でみるならば、明治三十三年には一〇九・六だったものが、昭和七年には二〇二・一と二倍近くになったといえよう。また娼妓一人当り一日平均の遊客は明治三十三年一・七五人だった。昭和七年には二・〇四人、同九年には二・六二人と稼働率も一段と高まっている。ところで娼妓の平均所得は、年間で五〇四円二六銭二厘、月で四二円二銭一厘であった。いまわしい、苛酷な仕事にしては、せいぜいサラリーマン層の所得でしかなかった。
また大正十二年矯風会はじめ各婦人団体が全国公娼廃止期成同盟会を結成したのに対して翌十三年東京府下の貸座敷業者は品川三業組合事務所に集まり、廃娼反対運動をはじめた。そのとき品川三業組合取締浅井幸三郎が東京府貸座敷連合会長となり、昭和三年第七回全国貸座敷連合会で品川の浅井が会長に選ばれた。浅井幸三郎は後に品川区会議長にもなった人である。