人口急増

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 関東大震災は東京市と近郊町村の相貌を一変させた。それまでに、すでに近郊町村の人口はふえつつあったが、震災はこれを決定的にした(第86図)。東京市内の大半が焼野原となり、市内の六割近くの世帯が住む家を失ない、その大部分が近郊に移転した。近郊の荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡八二カ町村の人口は大正九年の一一七万人から同十四年二一〇万人、昭和五年二八九万人へと急増した。この五郡のうちでも荏原・豊多摩・北豊島など現在山の手とよばれる地域の人口増が約八割を占めていたし、その三郡の中でも荏原郡は最も人口増いちじるしく、三郡増加分の四五%を占めていたのである。その中でも平塚村は大正九年の八、五二二人から昭和五年には一躍一三万二一〇八人と実に十五・五倍という驚異的な急増ぶりを示した(八二カ町村第一位)。すでに市街地化していた品川・大崎よりもはるかに高い人口密度を示すに至った。


第86図 明治後期から昭和戦前期の現品川区域の人口の推移

 平塚村の人口の急増ぶりがいちじるしかった理由は、東京市に接していたけれども、道路・交通機関の施設が他町村より貧弱で、純然たる農村の姿のままでいたために、何よりも地価が低廉だったことにある。しかも種々制約のある市街地建物法が平塚村に適用されなかったことも手伝って、震災後、平塚村にぞくぞくと仮工場やバラックが建てられ、多勢の低所得層の人びとが移り住むようになったのである。


第87図 明治後期からの昭和戦前期の現品川区域内町村別の人口推移
(写真は昭和初期の戸越銀座)