困窮をきわめた町村財政

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 東京市近接五郡の町村で最高の人口増加率を示した平塚村は、いまや荏原郡中第一位の人口を擁し、人口密度では日本一の村となった。大正十四年十一月二十八日、村会で町制施行を決め、四月一日より平塚町となった。ところが平塚町と同名の地が北豊島郡のほか神奈川・千葉・群馬各県にもあったため、昭和二年三月二十日平塚町会は、由緒深く郡名でもある荏原をとって荏原町と改称した(七月一日から実施)。

 人口急増にともなって、品川区域町村も他の隣接町村と同様に、財政困難に陥った。その原因の一つは、人口の大量転入にともなう就学児童の増加による小学校の増・新築、震災の復旧事業はじめ宅地化にともなう道路改修、地盤整理のための経費、上水道の敷設などの財政需要の急膨脹にあった。今一つの原因は、人口増の割には、町財政収入がふえなかったことにもあった。それというのも急増人口の大部分が罹災者であり、担税能力の面からいってもカード階段といわれる要保護者層が相当数いたほか、大部分がサラリーマンや労働者など低所得層だったからでもあったろう。そのために各町とも多額の町債を発行して、切り抜けようとした。起債総数額は、品川町一四二万一四八二円、大崎町七六万六四〇〇円、大井町五五万一九〇〇円、荏原町九一万六一九円七一銭に達しその結果昭和六年三月末現在には、品川町では一年度の歳入合計の二・四倍、大崎町一・三倍、荏原町一・一倍、大井町〇・九倍にのぼる負債をかかえかかえるに至ったのである。このような東京市近接町村の財政危機は、昭和七年の市郡併合の一つの要因をもなしたのである。


第88図 荏原町役場