住民生活の変化

216 ~ 216

 都市化によって住民の生活は大きく変化した。住居の面では、従来萱葺(かやぶき)だったのが、瓦葺やスレート葺の家に漸次変わっていった。間取りは依然として田の字形に四室を配置した方式を採りつづけたが、農業を行う上で必要な土間はなくなり、台所・浴室は近代化し、便所も小便器を取りつけるという変りようだった。食事の面では、都市化に伴って耕地面積とくに水田が次第に縮小されるとともに、稲作は少なくなり、米は購入するようになった。帝国農会が行った東京近郊農家の生活調査によれば、大正七~八年頃から主食が麦から米に比重が移っていったと報告されている。大正期後半、米が主食の中心になったとわいえ、米だけというのは例外で、大部分は米と麦を同量ずつ、中には七割が麦という農家もあったらしい。農家が米飯をとるようになったのは、何よりも農家の生活水準が、いちじるしく向上したことを物語っている。その一つの要因は、それまではたとえば零細な農家だったものが宅地化によって、いわば都市地主へと社会的階層が変化したことにもある。また、たとえ地主化したとしても、ほとんどの農家は自家用程度の野菜をつくる畑を残していた。以前は、味噌・醤油・油は自家製造する家が多かったが、しだいに購入するようになった。その上、住宅地化ですべてを貨幣で購入するサラリーマン層を中心とする居住人口がふえてくると魚屋・肉屋などの商店も生まれてきたのである。衣服の面では洋服の普及が大きな変化をもたらした。外出着は木綿のほかに絹の着物もきるようになったし、洋服を着る人も増加してきた。農耕作業の仕事着は、当初それほどの変化はみられなかった。しかし、下着にメリヤスが使用されはじめ、わらじに代わって地下足袋がはやりだしたのも大正中期以降のこととされている。


第94図 昭和初期の大崎警察署付近