ある農民は農地を一町歩ほど耕作する三谷でも上層の農家に明治十年代に生まれた。三谷は約三〇戸のうち地主および自作は七~八戸、そ他のは四~五反歩の畑を小作する貧農であった。彼は成長した後、農業に精を出すが、小山は当時、近郊野菜の主産地だったので、各種の野菜類を栽培し、収獲した野菜を品川用水で水洗いして、大八車に乗せ、中原街道を通って聖坂を越え、三田四国町・赤羽橋を通って京橋の青物市場に出荷する生活が続いた。前日に荷ごしらえをし、午前二時に家を出発、三時間かかって、朝五時に市場に到着するというきびしい労働であった。大正に入ると、この部落では耕地整理が始められ、彼は幹事役として活躍した。そして大正十二年を迎えたが、彼は直ちに宅地地主に転業し、四軒の個人住宅と一戸建四世帯住みの二階建長屋を建てたほか、広い土地を貸地として、家賃・地代で生活するようになった。それ以後は町内会長・消防・各種委員などで、新しく生まれた小山の顔役としての半生を送ることになった。昭和九年、住みなれた葺ぶき農家を壊して、豪壮な住宅を新設した。
農業が衰退してくると、耕地を宅地にして地代収入で生活をする宅地地主になるか、あるいは耕地を売ってそれをもとでとして商売を営むか、あるいは職人・職工・サラリーマンになるか、ほぼこの三つの転業形態が多かったとみてよいであろう。小作農で土地をほとんどもたなかった農民の多くは職工やサラリーマンなど都市下層に組みこまれていったとみてよい。