サラリーマンの生活

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職工とならんで大正期から昭和期初期にかけて、現品川区地域で目立ってふえたのがサラリーマンといわれる事務員・銀行員・教師・官吏らであった。サラリーマンが一つの社会階層をなすほど多勢になったのは、会社の規模が膨脹し、とくに営業・事務など本社機能がふえたこと、商事会社・銀行・証券会社の発展、デパートの登場や政府の規模が拡大して官吏がふえたなどによるものであり、とくに、東京市をはじめ大都市に集中的にみられる現象であった。サラリーマンの生活は、朝の通勤電車からはじまる。たとえば大井町駅へ電車がつくと駅員がかけていって、次々と掛けがねをはずしてドアーをあける。鉄道院大井工場などへ勤める人が降りると、都心に向かうサラリーマンが乗り込む、発車前にまた駅員が掛けがねをかける。ラッシュ・アワーといっても、ほとんどの人が背広にネクタイで手下げ鞄を手にし、冬はソフト帽子を夏にはカンカン帽をかぶるという姿だった。しかし、サラリーマンの生活は決して楽ではなかった。月収はある調査によれば職工より一〇円ほどサラリーマンの方が多かったとされている(権田保之助「労働者及び小額俸給生活者の家計状態比較」)。ただし、会社の営業と本人の働きがよければサラリーマン層には数月分のボーナスが夏・冬に支給される例があった。それが職工にはほとんど無かったので、両者の格差はボーナスを加算すれば、もう少し大きくなるといえよう。品川区地域では、十五円だせば、現在の3DK程度の一戸建てで、狭いながら庭つきという家を借りることができたから、月一〇円位の格差も快して無視できない違いであったといえる。しかしサラリーマンも職工と同様に、ほぼ生活のすべてを限られた収人=給料・賃金でまかなわなければならない状態におかれていた。したがって、背広は着ていても、サラリーマンの生活は、余裕のない庶民の苦しいものには違いなかった。しかし、すべての生活必需品を現金で買うこれらの階層がふえればふえるほど需要に応ずるための商店が多くなっていったことも、この地域が商業的に発展した一つの原因にもなったのである。