(4) 交通機関の発展と変化

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 明治末期から大正期にかけて東京をはじめとする大都市への人口集中はいちじるしく、それと並んで交通もひんぱんとなり、鉄道・自動車などの交通機関も急速に発展した。現品川区地域では、山手線に大崎駅(明治三十四年)、五反田駅(同四十四年)、東海道線に大井町駅(大正三年)の開業および山手線の電化(明治四十二年)など、国鉄線(当時の鉄道院線、大正九年からは鉄道省になったので省線と改称)沿線の交通は大そう便利になった。明治三十八年私鉄の京浜電鉄が開通(品川~神奈川間)し、海岸部に沿った部分の便もよくなった。京浜電鉄は速度発車回数および快適さで東海道線より勝っていた上に、東京電鉄・横浜電鉄とタイアップして共通切符を発行するなどのサービスにつとめた結果、多数の乗客を引きつけ、明治四十年には利用客一五〇万人にのぼったとされている。むろん、京浜電鉄の飛躍的発展も、この時期における京浜工業地帯形成と密接に結びついていたことは明白である。これに対して国鉄側も大正四年五月京浜線(現在京浜東北線)に院線電車運転の再開で捲き返しをはかった。他方、京浜電鉄は同六年暮に東京市電乗入れの許可を獲得し、十四年三月、品川・高輪間の延長線を完成した結果、それを実現したのである。しかし、これらの地域は現品川区地域全体からみると、北部・東部だけで、広い西南部は全くといってよいほど交通の便はなく、わずかに中原街道沿いに五反田から雪ケ谷方面にかけて十人乗りの定期乗合馬車が走っている程度であった。だが、大正期に入ると、除々ではあるが進行しつつあった東京市街地の外縁部への一層の発展を予測し、郊外電車の開設が進められるようになった。すなわち、目蒲線(大正十二年)、大井町線(現田園都市線・昭和二年)、池上線(昭和三年)の開通がそれである。これら三私鉄線は、それぞれ、目黒・大井町・五反田という国鉄の駅を起点としているし、市内電車との連絡もつくようになることによって、西南地区も前とは打って変わって交通至便の地へ、農村から市街地へと変貌をとげていく条件が整えられていった。


第95図 昭和初期の八ツ山橋


第96図 昭和初期の五反田駅付近


第97図 京浜電鉄と市電の相互乗入れ当時の品川駅付近

 目蒲電鉄は東京郊外の住宅地開発事業と深い関係をもっていた。大正の初めの渋沢栄一は東京の発展に対応して郊外に住宅用地を構想し、大正七年、田園都市会社という宅地造成を目的とする不動産会社を設立した。渋沢はこの会社経営を実績のある阪急の小林一三に依頼したが、結局は五島慶太が中心となった。田園都市会社の住宅開発は、主に平塚・玉川・調布・馬込の各村で、大正十年までに一五九万平方メートル(約四十八万坪)の土地を買収、宅地に造成、洗足・大岡山・多摩川の三地区に分けて大正十一年から分譲を始めた。これと並行して、電鉄建設の準備にも着手し、同社内に荏原電気鉄道創立事務所をもうけ、大正九年に大井町駅―調布間の路線認可を、翌十年には大岡山―目黒駅間の認可を得るとともに、武蔵電鉄から多摩川―蒲田間の敷設権の譲渡をうけた。これを土台にして大正十一年、目蒲電鉄株式会社を設立したのであった。そして、悲惨な関東大震災が田園都市や目蒲電鉄にとっては、全くの好条件となった。目蒲電鉄自体が沿線地域への大量人口流入のパイプ、都市化の条件になるとともに、電鉄経営基盤の確立にもなった。その結果、目蒲電鉄は営業年キロ当り乗客数で京浜電鉄を追い抜くほどの業績をあげたのである。

 他方、池上線は、目黒駅から大森駅までを計画して大正三年認可されたものである(同六年池上電鉄株式会社が設立)。池上本門寺・洗足地・目黒不動尊などへの観光をねらいとしていた。大森は蒲田に、目黒は五反田に変更されて、蒲田―池上間が大正十年、池上―雪ケ谷間が大正十二年、雪ケ谷―大崎広小路間が昭和二年、そして昭和三年難工事だった五反田高架駅の建設をみて全線開通した。

 これらの私鉄の開通は、現品川区域に及ぼした影響は非常に大きかった。目黒・五反田・大井町の国鉄の各駅が私鉄の乗り換え駅となって、乗降客が急増するとともに、駅周辺部は商店街としてめざましく発展した。とくに池上線五反田駅にできたビルには、日本橋白木屋の支店がターミナルデパートとして誕生したり、大井町には高島屋・白木屋の十銭ストアーができるなどして、それを核とした繁華街が形成された。また、私鉄の各駅を中心にその周辺に住宅が建ち並び、小山銀座などの小繁華街が形成され、こうして、かっての農村は都市へと変貌をとげていったのである。


第98図 池上電鉄戸越銀座駅(昭和初期)

 ところで、関東大震災で鉄道が、大きな打撃をうけたために、急遽、補助的な交通機関として登場したのが、乗合自動車=バスであった。当初はフォード社からトラック用の車台を輸入し、それをバス用に仕立てたものだったが、市電同様に便利であるため次第に震災前後から普及しはじめ、この地域でも、市営乗合はじめ私鉄がバスを走らせるようになった(第16表)、しかし、たとえば、昭和四年六月二十五日に営業開始した目蒲電鉄の最初のバスは、大井町駅前―東洗足間の三・二七キロだったが、使用車両はA型フォード四台で、乗客定員七~八人の小さなものでしかなかった。

第16表 品川区域内における乗合自動車
名称 経営主 組織 払込資本金 営業キロメートル 車両現在数 開業年月 主要路線
千円 キロ 年 月
市営乗合 東京市 市営 4,420 135.5 658 大正13.1 目黒駅~芝口
京浜乗合 京浜電鉄 株式会社 869 18.5 36 昭和4.10 品川駅~立会川六郷
城南乗合 城南乗合自動車 60 3.9 9 〃 2.8 大井町駅~京浜国道
池上乗合 池上電鉄 149 20.3 39 大正9.8 品川駅~五反田
目蒲乗合 目蒲電鉄 90 20.3 15 昭和4.6 大井町駅~荏原町
目黒自動車 目黒自動車 230 18.7 32 大正12.6 品川駅~鷹番
東横乗合 東横乗合〃 100 33.3 57 〃 9.12 目黒駅~下目黒

備考) 「大東京ニ於ケル交通ニ関スル調査」より作成。

 さらに昭和期に入るとタクシーも新しい交通機関として登場し、この地域では業者三六五、車六〇一台を数えた(昭和十年)。